2025/7/27-8/2

第95号
上野友之 2025.08.03
誰でも

7月27日(日)

8:30起床。晴れ。

脚本直し。合間に某件のキャスティングを考えたり。

細かい話だが、Wordで書いた脚本をPDFにして送信する際、

iPadで作業すると、Word→PDFの変換時に行がズレることがある。

今日はそのエラーで、出先(といっても近所のバーガーキング)から送信するつもりが、

一旦帰宅して家のPC(Win)で変換して送信するタイムロス。

そのせいで、夜行こうかなと思っていた映画に間に合わず。

悔しいのでここに書き留めておく。

ドラマ「ディフェンダーズ」完走。

ここまでの【ディフェンダーズ・サーガ】は、

「デアデビル」Season1 〇

「ジェシカ・ジョーンズ」Season1 

「デアデビル」Season2 〇

「ルーク・ケイジ」Season1

「アイアン・フィスト」Season1

「ザ・ディフェンダーズ」〇

という順で続いている。(僕が見たのは〇のみ。)

先日見終わった「デアデビル」Season2は、ついにデアデビルが身近なある人物に自分の正体を明かす、という超クリフハンガーで終わる。

コナンが蘭に正体を打ち明けるようなものだ。

ところが、そのストーリーラインはそのまま「ディフェンダーズ」に繋がる。

すると、デアデビルの物語も四人のヒーローの群像劇の一つに組み込まれ、

ある人物にとって正体を知った衝撃は「既に済んだこと」になっている。

本来なら、正体を知られた/知らされた葛藤のドラマを、いくらでも引っ張れそうなものなのに。

何とももったいないというか、贅沢なストーリー進行だなと、

これをこんなところで書いても全く意味はないのだが、

書き留めておく。

7月28日(月)

8:00起床。晴れ。

絶対にバレないと思っていた完全犯罪(殺人)なのに、警察がやってきて尋問される、という夢を見た。

自分は夢を見ていて「これは夢だ」と気づくことは全くないので、常に生々しい。

警察が来た瞬間に「あ、これで人生終わりだ」と絶望した。

人を殺してバレる夢は定期的に見る。

某件のために久しぶりにキャスティングリストを更新。

知り合いの俳優陣の最近の動向を探るためにTwitterを見続けていたらなんか疲れた。

本棚から坂口安吾の本を手に取って読む。

ずっと前に「堕落論」などを読んだ時はよくわからなかったのだが、今読むと衝撃を受ける。

「堕落論」「続堕落論」も凄いが、「日本文化私観」が戦争中(昭和17)年に書かれたことにも驚いた。

安吾、一度腰を据えて読もう。

7月29日(火)

7:30起床。晴れ。

ル・シネマ渋谷宮下で映画『私たちが光と想うすべて』鑑賞。

信頼する評者の人たちが挙って絶賛していたので期待してたが、自分にはあまりピンとこず。

大都会ムンバイの夜と群衆と孤独、みたいな好きなモチーフなのだが、

暗めのルックと、ややゆったりしたテンポが合わなかったのか。

HMV&BOOKS SHIBUYAで

「強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考」(井上慎平)、

「天国と地獄―選挙と金、逮捕と裁判の本当の話」(河井あんり)、

「「働けない」をとことん考えてみた。」(栗田隆子)、

「月まで三キロ」(伊与原新)

を購入。

それぞれ最初を読んだがどれも面白い。

7月30日(水)

6:30起床。晴れ。

午後にかけて初めての取材的な仕事。

それだけで疲れてしまった。

カムチャッカ半島を震源とする地震で津波警報。

7月31日(木)

6:00起床。晴れ。30分ほど布団でダラダラしてから起床。

朝は風が涼しい。近づく台風の影響だろうか。

「強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考」(井上慎平)読了。

良かった。

NewsPicksパブリッシング創刊編集長として、バリバリのベンチャーでバリバリ働いていた著者が、鬱病を経て自分や仕事や社会を見つめる。

能力主義にも疑義的な視点が向けられるが、文章力やメタ思考力だけでも、著者自身の圧倒的な地頭の良さがハッキリ伝わってくる。

元になった体験は辛いが、「書かなきゃ、伝えたい」という熱量に溢れており、知的好奇心も刺激された。

脳が物語的に物事を理解するからといって、世界そのものも物語的だとはかぎらない。むしろ、明確的に物語的じゃない。世界は、説明に組み込めない偶然性に満ちていて、予測なんて不可能だ。
「強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考」(井上慎平)

  僕は世界は偶然に満ちているんだ、必然なものなどないんだと繰り返してきた。それなのに、現実には、世界は無限の可能性の中から瞬間瞬間でたったひとつの結果として確定し、過去となり、積もっていく。不思議でしかたがない。
【中略】
 過去だけはもはや偶然やら不確実性やらという抽象的な言葉が届かないところにいる。なんといったって、それは実際に起きたのだから。
 無限の可能性のなかから確定し、積もっていく過去。その「地層」としての自分。いくらでも「こうじゃない私」でありえたのに、なぜか他ならぬこの「私」が、今ここにいる。
同上

 そりゃあ、ネガティブな感情は嫌だ。でも、本当に人を苦しめるのは、ネガティブな感情そのものじゃない。「ネガティブな感情が自分の中に存在することを自分で許せないこと」こそが人を真に苦しめる。
 「周りだってがんばっているんだから、これくらいで苦しいなんて甘え」
 そんなふうに、少なくない数の人が「こんなことを思っちゃう自分がダメなんだ」と自分を責めている。ひとつのことに二度傷ついている。一度目はしかたない。でも、二度目の傷つきはいらない。
同上

 一般的には、本能こそ差別の温床で、理性は差別によって排除された人を包摂し直すものだと考えられている。でも、本当にそうなのか? 逆に、理性による非理性的なものへの見下しが、その視線に対する反抗が、いまあちこちで問題になっているんじゃないか?
 社会はどんどん人に理性を求めるようになる。けれど、多くの人は求められるような速度で理性的にはなれない。理性的な人とそうでない人のギャップはどんどん開き、互いに反発を深めていく。ここに、理性の限界がある。
 言うまでもなく理性はとても重要だ。けれど、人は理性だけではつながることはできない。
同上

→太字は原文では傍点。

新宿ピカデリーで映画『スーパーマン』鑑賞。

面白かったけど、前評判で期待したほどではなかった。

明らかにガザ侵攻を想起させる描写も、日々見せつけられる現実のジェノサイドを考えれば「実際には助けてくれるスーパーマンはいないのに……」と思ってしまった。

などと考えていたが、以下の記事は説得力があった。

「天国と地獄―選挙と金、逮捕と裁判の本当の話」(河井あんり)読了。

こういってはなんだけど、とても面白くて一気読み。

買収事件も、当時の報道についても、河合さん自身についての印象もガラッと変わる。

明らかにふりきっており、ユーモアたっぷりで何度も笑ってしまうが、とにかく文章、描写が上手い。

Netflixで映像化したら当たりそうと思いながら読んだ。

事件や政治観は置いておいて、著者の人柄は伝わってくるし、「こんなに賢く面白く志もある女性が、なぜ(かつての)河合克行氏のようなパワハラモラハラ男と結婚したのか……」ということが解せなくもある。

楽しく読ませて貰ったが、

恣意的で違法捜査も辞さない検察、を黙認する裁判官、「叩いていい」認定した人を狂ったように叩くマスコミ≒国民の集団ヒステリーにうすら寒くもなる。

それでも「世の中は想像よりずっと寛容」と結論づける筆者がまた凄いのだが。

同じ自民党の候補を執拗に排除する自民県連の異常さも謎で、結局その論理はよくわからなかった。

 広島県連は一致団結して、私を自民党公認候補と認めないようなことを言う。県連が認めなくても党本部が認めてしまっているのだが、会議を開いて「地方のことは地方で決める」と勇ましいことを言って、みんなで固まって気焔をを上げている。

 そう言われても、一介の党所属議員に過ぎない私の立場では、公認が出た以上、党勢拡大のためにやるしかないのである。
 私は、今度こそ自民党の幟を立てて、毎朝6時前からひとりで街頭に立っている。広島の3月中旬の気候は、まだまだ寒い。まだ暗い5時過ぎに起きて鏡に向かっていると、恐ろしさに手が震えてうまく化粧ができない。負けることが怖いのではない。そもそも選挙に出るようなちょっとネジの外れた人間は、自分が負けることなど考えないものだ。そうではなくて、男たちのあからさまな敵意が怖い。彼らがまるで、みんなで一斉に催眠術にかかったように感情的になって私をすり潰そうとするさまが怖い。【中略】ちょうど子どもを幼稚園に送っていく母親たちが目の前を自転車で通り過ぎて行く。あまりに優しい風景に胸を打たれる。平和で愛に満ちた生き方もあったはずなのに、自分の人生が男たちとの抗争にまみれてきたことに私は気づく。そしていま、自分は男たちの憎しみを一身に受けている。どうしてこの道を選んできてしまったのだろうか。恐ろしさに打ち震えながら、私はしんそこ、母親たちが羨ましくて仕方がない。
「天国と地獄―選挙と金、逮捕と裁判の本当の話」(河井あんり)

 この陣中見舞いの際、4名の県議の先生たちに見舞金を持って行ったことで、のちに私は逮捕されてしまった。
 このことについて、何をどう言えばいいものか、先ほどから私は考えあぐねている。今まで通り事実だけを述べるつもりであるが、私が何を言っても言い訳がましく、また真実でないように聞こえてしまうのではないかと恐れている。だが、ありのままを述べるのが私の責任である。
 一般的な話として、少なくとも自民党の国会議員が、親しい候補者に対して手ぶらということは考えられない。だいたい国会議員が持っていく金額は10万円以上、色をつけて30万円が相場であろうか。私はまだ国会議員でもないのに、県議の先生たちに、見舞金を持っていかなければ悪いような気がしていた。私は完璧に業界の常識に染まっていて、全くもって感覚が麻痺していた。本当に申し訳ない。だからまず、どうして私の感覚がズレるに至ったかを話さなければならない。
同上

それがたとえ正論であったとしても、悪法も法なのだ。現在の法体系の下では領収書を細工しなかった方が悪いのである。テレビも新聞も、ウグイス報酬の実態を一度だけ報じたあとは、そんな記事を書いたこともすっかり忘れてしまったかのように、運動員買収事案として、報道は過熱していった。
同上

以下のくだりなど、正直そのままドラマの脚本として使えそうだ。

 夫は黙ってテレビを消した。
「私の選挙で、お金を配ったの? あんなに、私が頑張った選挙だったのに。あなた私の選挙を、お金で汚したの?」
 私はいつの間にか泣いていた。泣きながら夫を責め立て、怒鳴り続けた。
「どうしてお金なんて配るのよ。私が通らないとでも思った? 私のこと、信じられなかった? お金なんて、使うなって、私、あなたの選挙でもずっと言ってきたじゃない。どうしてよりによって私の選挙で、お金なんか配るのよ」
 夫は目を瞑り、苦しそうな顔をして私の言うことをじっと聞いていたが、とうとう、絞り出すように低い声で、言った。
「仕方ないじゃないか! これが自民党の選挙なんだよ!」
 私は、ハッとして黙り込んでしまった。言葉がなかった。
同上
 ところが、検察のやり方に納得のいかない夫は、ソファの上で自分のスマホを握りしめて、一向に彼らに渡そうとしない。
「スマホを渡してください」
「渡さない」
「渡して」
「渡さない」
 などと、やり合っている。しまいには、
「法務大臣までされた方でしょう。潔く出してくださいよ」
 目の前に立ちはだかった検察官に説得されている。私は検察にも頭に来ていたが、夫の往生際の悪さにも腹が立ってきた。強制捜査に抵抗してどうする。証拠隠滅を図ろうとでもいうのか。もっと堂々としなさいよ。どいつもこいつも本当にダメな男たちだと思った。
【中略】
 私はとうとう、
「そんなに調べたいなら、どうぞ調べなさいよ」
 そう言って、ソファから立ち上がり、着ていたものをぱっぱと脱いでみせた。みんな唖然として、私を押しとどめることも忘れている。全裸になり、私は男たちに向かって言った。
同上
あの人はほんとにこれで私を当選させようと思ったんだろうなあ。馬鹿な人だ。常日頃の彼の、単細胞な思考を思った。涙が出てくる。「どうして」と独り言が口をついて出た。選挙でお金を配って票を得ようとするのは、はっきり言って選挙を知らない人のすることだ。票はお金じゃ買えません。あなた、一番知っているはずじゃないの、と思った。全くの無意味で違法な行為だというのに、夫は私のためを思ってせっせと金を配り続けたに違いない。
 誰かが「わたし」のために倫理に悖る行為をしたとき、「わたし」はどうするべきだろうか。
同上

以下のように、突然思考が飛ぶところも、正直面白い。

杉山検事は本当にカチンときたのか、
「私が怒っていようが、内心泣いていようが、喜んでいようが、あなたには何も関係ないことですがね」
 などと、また延々と話が続くので、私は彼の話に耳を傾けることをやめ、(私は一体、この事件が終わったら、どうするんだろう。AV女優になるのかなあ)などとひとりで空想することにした。
 というのもこのところ、弁護士との接見の時間の大半で、私は、
「先生、私は一体これからどうやって食べていけばいいかなあ」
と、自分の将来についての不安を打ち明けたりしていたからである。
同上


そして最後に辿りつく以下のくだりは、まさに本人にしか書けない文章。

この辺りは感動すらしてしまった。

 一緒に住み始めた母は、私を責めたり、焦らせたり、決断させたりするようなことを、一言も言わなかった。
「今はとにかく、だらーっとしなさい。寝たければ寝て、テレビを見たければテレビを見て。やりたいことだけをやりなさい」
【中略】
 正直なところ、私も、多くの女性たちと同様、母親に傷つき、長いこと母親との関係に絶望してきた娘であった。私は自分が生きている間に、母との関係が好転するとは期待していなかった。しかし私の事件が、私と母、家族の在り方を変えた。
同上
 戦い、負け、喪った。私の人生を一行で言い表せば、そういうことになる。選挙と戦争は勝たなければ意味がないと教わってきた。では、負けた人生に意味はないのだろうか。
【中略】
 ここで問題である。
「意味のないことに、何の意味があるか」
 若いころの私は、何者かにならなければ、といつも思っていた。何者かになるために、無駄な時間、意味のない時間は悪だとさえ思った。しかし人生を細切れにして、ただの点にすれば、すべてのことの意味はなくなっていくのじゃないか。
同上

今日読んだ二冊とも、書き手の「肉声」が響いてくるような文章だった。

8月1日(金)

8:30起床。曇り雨。台風接近しているらしい。かなり久しぶりの雨。

企画書というか、その前段階のキャスティング案を作る。

俳優の顔写真を同じサイズにトリミングして並べ、各々のプロフィールを書き込む。

こんな作業こそAIで一発で……と思うのだが、なかなかうまくいかず、何度もプロンプトを打ち込んだ上、かなりの手直しが発生し、結局最初から自分でやった方が良かったか、という時間がかかってしまう。

「「働けない」をとことん考えてみた。」(栗田隆子)読了。

タイトル通りの本なのだが、ひとまずメモとしての引用。

さらにこの社員を社会の中心に据えるやり方は、資本主義の根源とも言うべき資本家(経営者や株主や土地を持つ人)と労働者の対立、「労使対立」を曖昧にし「労使協調」路線へと誘導し、資本主義への疑念を逸らすのにも都合が良かった。さきほど女性同士の分断を作り出すことによって「正社員」の枠組みへの疑念を逸らすと書いたが、本来なら株主を指す「社員」を従業員の呼称にすることで「労使関係」という資本主義のもとでの緊張感のある関係を覆い隠し、家族のような運命共同体として企業や株主の存在を認識させる良いやり方だったのかもしれない。事実「社員」という言葉が使われだした頃に、エリートを指す「社員」が普通の従業員へと変わっていったが、それは日本の労働運動が徐々に後退していった時期とも重なる。
「「働けない」をとことん考えてみた。」(栗田隆子)
だが既存の(というか古来ゆかしい)フィクションの独身男性には、「世俗を捨てた」美徳とか、何らかのイノセントなありようとか、世の中についていけないダメさ(だけど女性にはモテることもある)などが備わっていることが多く、いわば美化された、あるいは時代遅れの独身像であって、現実の「弱者男性」と言われる男性にはたいして役に立っていない気がする。独身女性が「結婚したがっている」女性として描かれたり、負け犬として描かれている従来のフィクションが今を生きる女性たちには共感を得ることが難しいように、今を生きる独身男性も「美化された独身像」からはそれほど力を得ることはできないのではないか。
同上
 しかしそこで感じる安心とはなんだろうか? そして「マジョリティの詰め合わせ」に少しでも近づきたいという気持ちはどこからやってくるのか? と突き詰めると究極、「怠けている」だの「ズルい」だの「性格に問題がある」といった罵倒や非難をされない状態と言えるのかもしれない。私の頭をかすめる安心とは誰からも文句を言われぬ生活、ということなのだろうか。
 しかしこの「安心」には罠がある。
同上
 しかし(これは個人差があるかもしれないが)登校拒否時もそうだったが、うつ病のひどいときほど「怠けている」とか「ズルい」とか「本人の性格の問題」という言葉が私に刺さってしまう。文字通り心身が弱っているからこそ、世間のバッシングを弾き飛ばせないでその言葉がそのまま自分に向かってしまう。シモーヌ・ヴェイユという哲学者が「不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。」と上記バッシングを暗示するような言葉を残しているが、私にとってうつ病とは人からの嫌悪はもとより、自分に対する嫌悪や軽蔑を抱いてしまう病なのだ。
同上
 資本主義や家父長制、あるいはジェンダー規範や能力主義に否定的な思想家や研究者が、実際は既存のシステムの中で特権的であったり、あるいはジェンダー規範からそれほど外れることもなく、能力もあるという場合も多い。それが悪いと言いたいわけではない。個人において思想と実践が完全に重なりあうなんてことは残念ながらそうそうあり得ない。だからこそ、さまざまな立場の人とともにいろいろなやり方で社会を変えるための運動が必要なのだ。
同上
日本の労働における多様性とは、真ん中の基準は微塵も変わらず、安い賃金で不安定に働くあり方だけが「多様化」したように感じる。あるいは「生きづらさ」や「○○障害」という言葉はいっぱい生まれている。それらが全く意味をなさなかったとまでは言わないが、周縁にいる人を指す言葉が増えただけで、模範とされる身体のイメージはいまだに「健常者成人異性愛シス男性」である。
同上

昨日今日と読んだ三冊は、テーマも、著者のキャリアも、全く異なるのだが、

三人とも鬱病を罹患したという共通点がある。

今の(日本の)社会で生きていくことの困難さが浮かび上がってくるようではあった。

夜はさよなら人生ミーティング。今日は四人で。

主にキャスティング会議。Pがその場で候補の方に電話でスケジュール確認(残念ながらNG)するなど流石のスピード感。

終わって三人でラーメン、ビール一杯だけ飲んで解散。

「イエローストーン」最終章を見るためだけにWOWOWオンデマンドに再加入して1話視聴。

俺はどこまでもテイラー・シェリダン信者。

台風は直撃はしなかったようだ。

8月2日(土)

二度寝して9:00起床。晴れ。

書くべき書類があるのに、だらだらしてしまい、本を読んだりドラマを見たりTwitter見たり掃除したり。

夏が過ぎゆく。

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