2025/7/20-7/26
7月20日(日)
6:00起床。晴れ。
投票所(徒歩30秒)が開いてすぐの7:00過ぎに参院選の投票。
東京選挙区で誰に入れるかはギリギリまで迷った。
当初は参政党を落とすための戦略投票をと考えていたのだが、予想は暗い。
千駄ヶ谷まで歩く。
某件のアイディアが固まらないまま時が過ぎゆく。
AIで形だけ整えた中身のない企画書をとりあえず共有してみる。
「物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために」(難波優輝)読了。
タイトル通り、行きすぎた「物語化」を批判し、そのオルタナティブとしてのゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃという「遊び」の可能性と課題を論じる。
論理に追いつけないところもあったが、それも含め文章に勢いがあり、知的好奇心も刺激されて面白かった。
紀伊國屋で大々的に平積みされていたが、注目の若手批評家?なのだろうか。
例えばナラティブ・セラピーへの疑義。
この辺りは物語批判だけでなく宗教批判ともとれるかもしれない。
物語を仕事にする人間も気をつけた方が良いこと。
病気になったからといって、そこに意味を見出す必要などないだろう。
病気を自己語りすることで救われる人もいるかもしれない。
しかし、すべての人にとってそうであるわけではない。
ただ単に自分が病気になったこと、ただ単に苦しいこと、ただ単に病気の自分を生きること。そうした単なる人生を愛する人も一定程度いるように思われるのだ。
人生は物語ではない。目的などもたない。
不幸は単に不幸であり、幸福は単に幸福である。
【中略】
人は、自分に対して自己語りをするだけならば、それが愚かな選択であったとしても、本人の選択ということで許されるかもしれない。だが、自己語りの枠組みを他人に適用する場合はどうだろうか。つまり、物語的な「他人語り(other narrative)」はどうだろうか。
著者は当然、すべての物語を否定するわけではない。
人は情動を感じるために物語を必要とする。
私たち人間にとって、適切に情動を感じることそれ自体が喜びになりうるからである。【中略】ある文脈において、何らかの情動を感じるとき、人は喜びをも同時に感じることができる。たとえば、くるりの「Jubilee」は、この「情動を感じる経験」自体の美的な価値を指摘している歌である。
【中略】
誰かが去ることは、悲しい。だが、その悲しみは、独特な意味での喜びである。
ここでの喜びは、悲しみと同じレベルの、happyと英訳されるような喜びの感情ではない。よりメタレベルの喜び、「美的喜び」と言ってもよいような、独特な快なのである。
以上のような「適切」な情動もあるが、「不適切」な情動もあるのではないか、と議論は続く。
私たちはなぜ情動を感じたいのか。
第一に、情動を感じることはそれ自体喜びであり、第二に、情動によって他人とつながることもまた別の意味で喜びであるからだ。
しかし、今や、これらの喜びを利用することで利益を得ようとするプラットフォーム環境があり、とりわけ、情動喚起のストッパーを持たない野生の物語を使って、自分たちの有利に働くように画策している人々もいるようにみえる。
私たちは、今一度、物語との付き合い方を再考することで、自分たちの情動に向き合うことが求められている。
数多くの物語を鑑賞することで「物語に対して適切に情動を感じる能力」を高められたとしても、それが「現実世界に対して適切に情動を感じる能力」を高めたことにはならないケースもよくある。両者は、異なる情動のルールに基づいて評価されるからだ。
物語はこれからも生まれていくだろう。それ自体を否定するわけではない。
だが、どうか物語に呑みこまれないように。
私たちは物語の他にも、数え切れないほどの自己理解と世界理解のための扉を持っている。
人生をゲームと捉えることについて。
人生をゲームとして捉える人々も、彼らなりのルールに基づいて、人生を「よりうまくやれ」という命令を自分、そして他人に命じがちだ。
SNSや自己啓発本などでは、「まだまだ人生には攻略の余地がある」「もっと効率化できる」「もっとハックできる」「もっとレベルアップできる」というメッセージが流通している。人生は「攻略」の対象であるというメタファーが支配する文脈においては、成功を目指して努力しない者は怠惰であり、成長を拒む者は社会の落伍者ということになる。
【中略】
「人生はゲームである」というメタファーは、資本主義しか私たちの選択肢にないとするような資本主義リアリズムを補強するために役立てられてしまっているのだ。
ニーチェの「力への意志」概念を引いて。
労働文化の多くは「一階の目標」の是非を問わない。いまやっている仕事に対して、本当に意味があるのか、社会にとって良いのかといった、本質的な問いは投げかけない。その代わりに、「抵抗を克服すること」そのものを愛せ、と命ずる。組織の成長や「チームが勝つこと」のみが重要なのだ。
だが、一階への欲求へのこうした無関心は、新たなニヒリズムを招く。
第一に、たとえば、あなたがユダヤの人々をガス室に送る仕事に就かされたとき、力への意志を発揮して、「ガス室に送ることで発生する抵抗」に対抗し、これに喜びを感じることも可能になってしまう。力への意志に含まれる一階の欲求は、理論的には何でもよいからだ。
【中略】
一階の欲求が本当に正しいかを考えねばならない。自分がその仕事をうまく遂行できるか、結果を出せるかではなく、仕事の内容にこそ、意味を求めるべきだろう。
人生をRPG的に捉えることは、あらゆる出来事を「クエスト達成のための通過点」とみなす態度を助長しかねない。【中略】そこにある一回一回の痛みや、本当になすべきだったのかという倫理的な葛藤がなきものにされるかもしれない。
物語的メタファーとゲーム的メタファーの融合によって、物語的な自己陶酔の危険と、ゲーム的で数値的な強迫観念が同時に呼び寄せられる。両者が互いの理解を強固にし合うことで、他の人生理解へと脱出することを許さないような環境が、社会全体で作られていってしまうことが、いかにおそろしいことか。
パズルについて。
膨大な情報が拡散し、カオス化するほど、それを一元的に理解して整理しきりたいという欲求はむしろ高まっていく。ユーザーはこれでもかというほど情報を収集し、そこから唯一のルートや真の結末を探し出す「フィードバック型」の学習ループに没入する。
これがリの言うサイバネティックな遊びの核心であり、パズル的自己を動かす原動力でもある。データベース消費の時代をさらに先鋭化させるのが、こうしたトランスメディア環境におけるサイバネティックなパズル消費なのである。
つまり、パズル的な最良の態度とは、謎解き(問題解決)の「じりじり」を愛する探究心を持ちながら、社会学的想像力によって個人の経験と社会の構造を往復し、「ハッとする」ことを楽しみながらも、一つの単純な答えに固執しない柔らかさと、再び「じりじり」を味わい、解けなさと共に生きる粘り強さを兼ね備えることにあるといえる。このパズル的態度は物語的理解とはかなり毛色の違う態度だ。
ギャンブルについて。
しかし実は、人生はギャンブルのようであって、ギャンブルではない。
ギャンブルは、明晰なルールや合理的な対戦相手、そして何を賭けているかがはっきりしている状況でのみ成立する。
ところが、人生は必ずしもそうではない。人生の選択の瞬間、その選択肢に関わる要素はあまりにも多様で、複雑で、人々の思惑も混沌としており、「何を賭けているか」すら把握しにくい。人生は「完全にコントロールできない」という意味で極度にランダムでありながら、そのランダムさが大きすぎるゆえに、私たちは不確実性の輪郭をうまく掴むことができない。
だが、ギャンブルにおいて人は、お金が一瞬で何倍にも膨れ上がり、あるいはゼロになるさまを目撃する。この瞬間、労働や努力といった象徴的な秩序と結びついていたはずの貨幣の価値の根拠が解体され、現実界が——部分的にせよ——ぬっと顔を出す。
ギャンブル依存症の研究では、いわゆる「大勝ち(the big win)」体験がしばしば転機となることが指摘されている。ビャウは、この大勝ちによって人が、お金とは本来、象徴的価値づけを失いうる、何でもないものなのだという洞察を得てしまうという。
労働や時間の積み重ねを介さず突然手に入る大金は、お金に対する既存の信念や幻想を破壊する衝撃をもたらす。そして一度「貨幣の崇高」が解体されてしまうと、その人は資本主義的な日常への回帰が難しくなる。
おもちゃについて。
物語的・ゲーム的な生き方、遊び方に没入することは難しくない。しかし、これらの生き方に入りこみすぎると、私たちの自己理解が歪められていく。自己語りは誤解を生み出し、ゲーム的スキルアップの発想は、世界の改善ではなく、ハックすることに人を専念させる。こうした主体は、物語的な自分、ゲーム的な自分に責任を持つ倫理のなかを生きている。
これに対して、おもちゃ遊び的な生き方とは、それらに接近して一緒に遊びながら、しかし、それらの遊び方に没入しすぎない態度を指す。
参院選、やはり自民は大敗。
参政党の躍進も怖いが、京都で西田が当選したのも本当に嫌なニュース。
7月21日(月祝)
8:00起床。晴れ。三連休は連日暑い。
夜はさよなら人生ミーティング。
次回公演の方向性は決まり、早速スケジュール案やキャスティングの相談など。
去年書いた戯曲なのだが、どこでやるかも見えないままでも一旦書き上げておいて良かった。
終わって、倉田さんと桂花ラーメン食べて解散。
7月22日(火)
7:30起床。晴れ。
最近は湯船に浸かるようにしてるからか、深夜の途中覚醒はほぼ無くなってきた。
ただ5時〜6時くらいに一回目が覚める。これくらいは別にいいのかな。
渋谷陽一さん死去。
自分は音楽批評には疎く、DJなど演者としての渋谷さんに触れたこともなかったし、フェスというものに行ったこともないので、あまり存在を意識したことはなかった。
それでも渋谷さんが作った映画関係の雑誌、CUTとかSIGHTなどは当然のように手にとっていた。それを通じて宮崎駿インタビューなどもよく読んでいた。
タイムラインが渋谷さんの追悼一色になるのを見て、今更ながら存在の大きさを知る。
渋谷さん、『rockin’on』を創刊したのは20歳の時だったのか。
さよなら人生、キャスティングスタート。
まずはこの人という、相思相愛の方に満を持して連絡するが、まさかのスケジュールNG。
無念。
健康診断の結果を聴きに行く。
例年通り、LDLコレステロールが少し高い以外は問題なし。
コレステロール値も去年からは下がり、基準値より僅かに高いのみ。
来年また来て下さい、となって終了。
しかしここのクリニックは先生(おじさん)が優しく丁寧すぎる。
それが15時頃で、家→クリニック→駅まで歩く30分で、直射日光に身の危険を感じた。
上野で脚本打合せ。
夜は某作業。思ったより時間がかかりすぐに23時過ぎ。
7月23日(水)
7:30起床。晴れ。今日も暑い。
某作業に午後までかかる。
その後、脚本の直しやろうと思ったけど頭が回らず。
キャメロン・ウォード「螺旋墜落」(吉野弘人 訳)読了。
息子が副パイロットとして操縦する飛行機に搭乗した女性。
その飛行機が墜落してしまうが、再び目が覚めるとタイムループしていることに自分だけが気づく。
しかし墜落までの時間はループ毎に短くなっていく。
彼女は、最後のループまでに墜落を回避できるのか、というタイムループ・サスペンス。
タイムループものでまだまだ新しいアイディア出てくるなあ。
ループする飛行機内の章と並行して、息子と母の間にどんな葛藤があったのか、息子が搭乗までの一年間をどう過ごしてきたのかを描く過去パートも挿入される。
これが墜落の真相にどう繋がるのか、という謎も肝になっている。
強引なところも含め、なかなか面白い構成だった。
今夏はロンT +ステテコという格好で寝ているのだが、新しく買ったチャンピオンのロンTの着心地がよい。
なんか急に、クーラーの効いた部屋で快適に寝られる幸福を感じた。これも小確幸(ⓒ村上春樹)か。
肌着はとにかく綿100%が良いらしい。
7月24日(木)
8:45起床。晴れ。
脚本を進めるはずが、三つのAIと同じ内容の人生相談をやりとりするなどして時が経つ。
「デアデビル」Season2まで完走。
面白いが、色んな勢力の思惑が入り乱れるそこそこ複雑なプロット。
続けて「ディフェンダーズ」を見始めたら、デアデビル以外のキャラクターを知らないので、たぶん醍醐味を逃している。
とはいえ他のドラマシリーズ全部を予習する暇はない。
7月25日(金)
7:30起床。晴れ。
午前中は四谷まで行って脚本の直し。
猛暑日で、行き帰りに歩くだけでも体力使う。
夜までかかって送信。
官邸前で「#石破辞めるな デモ」があったらしい。
高市早苗出てくるな&旧安倍派戻ってくるなデモ、ということだと思うが、
その是非はともかくとして、リベラルが一斉に石破擁護にまわるなんて、かつては考えられなかったと思う。
「石破さんは右過ぎる」とやや警戒する空気だったはず。
本当に世の中、時代の流れは読めないものだ。
7月26日(土)
8:15起床。晴れ。
連日、ザ夏な天候。
午後から再び上野で脚本打合せ。
帰宅して脚本直ししようと思ったけどあまり集中できず。
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