2025/6/15-6/21

第89号
上野友之 2025.06.22
誰でも

6月15日(日)

8:00起床。曇り。

夕方から晴れて湿度は高いまま暑い。

脚本からは逃げがち。

TLで好評だった映画『ディープ・カバー ~即興潜入捜査~』鑑賞。

アマプラでの配信のみ。

売れない俳優たちが、即興力を買われ潜入捜査員に抜擢され犯罪に巻き込まれて、というアクションコメディ。

かなり荒唐無稽だがそれが楽しい。

潜入捜査ものや、俳優が実世界の演技で「本物」になってしまう話はコメディと相性が良いんだな。

細かいリアリティや説明を飛ばしてグイグイ進める脚本は勉強にもなった。

6月16日(月)

9:00起床。うーん、なかなか起床時間が戻らないな。

30度予報の快晴。完全に真夏の天気。

シネマート新宿にて映画『殺しの分け前/ポイント・ブランク』鑑賞。

1967年のアメリカ映画で、後世に多大な影響を与えた犯罪映画の傑作という触れこみ。

同じ原作のリメイク『ペイバック』(1999年)も好きで期待して観に行った。

のだが、ストーリーよりも「いかにキメキメのショットを撮るか」を優先した演出、前衛的な編集(ヌーベルヴァーグの影響を受けたらしい)にのりきれず。

途中ちょっと寝てしまう。

リー・マーヴィンは抜群の存在感だし、女優さんも良かった。

夜はさよなら人生ミーティング。今日は三人。

想定外の流れから、思いつきで言った発言で、次回公演の方向性が決まったかも。

リスキーな挑戦ではあるが、場にいた三人とも「いいかも」という直感を共有した。

そういうのは大事にしたい。

終わって、文さんと新宿三丁目のバーで久しぶりのサシ飲み。

二人で公演の振り返りの話ができたのも良かった。

6月17日(火)

7:00起床。快晴。関東は35度予報!

実際に東京は35度までいって猛暑日だったらしい。マジで暑い。

家にいる間はずっとエアコン(除湿)。

マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」(訳 セバスチャン・ブロイ 河南瑠莉)読了。

マーク・フィッシャーという名前は、最近批評系の本やツイートで何度か目にしていた。

イギリスで社会批評系のブロガーとして活動していたが、2017年に既に自死している。

この本が代表作らしく、本国での出版は2009年(日本では2018年)。

15年以上前に書かれたことになるが、資本主義≠新自由主義の構造的な問題や、人々を蝕む空気感についての文章は、今読んでも非常に的を得ている感じ。

 

以下、最後に掲載された訳者のお二人による解説に本の主旨がまとまっている。

 資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう? 社会的流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務として受け入れているのだろう? 鬱病や依存症の原因は「自己責任」として個々人に押しつけられるが、それが社会構造と労働条件をめぐる政治問題として扱われないのはなぜだろう? もし資本主義リアリズムの時代において「現実的」とされるものが、実は隙間だらけの構築物に過ぎないのであれば、その隙間の向こうから見えるものは何だろう?
「諦め」の状態化に抗うーーあとがきに代えて(セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉)

本文から色々引用。

(※太字は書籍では傍点。)


新しいものは現存のものとの相互関係において自己を定義すると同時に、現存のものは新しいものに応じて自己を再構成しなければならない。エリオットは、未来を消耗してしまえば私たちに過去すら残されないと主張した。挑戦も変更もされなくなった伝統に価値はない。ただ保存されるだけの文化はもはや文化でも何でもない。
マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」(訳 セバスチャン・ブロイ 河南瑠莉)

『ウォーリー』のような映画は、ロバート・プファッラーのいう「インターパッシヴィティ[相互受動性]」の実例なのである。つまり、この映画が反・資本主義を私たちの代わりに演じてくれるので、私たちは罪悪感に悩むことなく消費し続けることを許されるというわけだ。資本主義におけるイデオロギーの役割とは、プロパガンダのように何かに対して明示的な主張を行うことではなく、むしろ資本があらゆる主観的信念に依存しないで機能できるという実態を隠蔽することにある。プロパガンダの関与しないファシズムやスターリニズムは想像できないが、資本主義は代弁者がいなくてもまったく問題なく、ある意味、より円滑に機能し続けられるのだ。
同上

教員がもっとも多く耳にする苦情は「つまらない」である。ここで問題になっているのは書かれた文書の内容ではない。むしろ読むという行為そのものが「つまらない」とされているのだ。私たちが目前にしているのは、昔ながらの若者的アンニュイではなく、「接続過剰のせいで集中できない」ポスト文字社会の「新しい肉」[New Flesh]と、衰退していく規律制度の基盤となっていた閉鎖的かつ収容的な論理の不釣り合いなのだ。「つまらない」と感じることは単純に、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミュニケーションと感性的刺激の母胎に埋め込まれた状態から離脱させられ、甘ったるい即時満足の果てしないフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。
同上

 もし規律社会の形象が労働者と囚人であったとすれば、管理社会をあらわす形象は債務者=依存者になるだろう。サイバースペースの資本は、ユーザーに常習性をつけることで作動するからだ。
同上

セネットは、この不安定性の常態が家族生活にもたらす耐え難いストレスを強調する。家族生活が基づいている価値観、つまり義務、信頼、責任は、まさに新しい資本主義においては時代遅れとされているものだ。にもかかわらず、公共圏が脅かされ、【中略】セーフティ・ネットが解体されるさなか、家族とは、つねに不安定である世の中の様々な圧力に対する安らぎの場としてますます重要になる。このようにポスト・フォーディズム型資本主義における家族の状況は、まさに古典的マルクス主義が予見した通りの矛盾をはらむことになった。資本主義は(親から子供と過ごす時間を奪い、互いを感情的に支え合う唯一の慰めになるカップルに耐え難いストレスをかけながら)家族を弱体化させるが、それと同時に(労働力の再生産およびその保護に不可欠な手段、または社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤として)また家族を必要としてもいる。
同上

ジェイムズはとりわけ、利己的な資本主義がいかに「野心と、その野心が叶うという期待」を煽り立てるかを指摘している。
【中略】
利己的資本主義の害悪のなかでも人の福利をもっとも損ねるのは、物質的な豊かさが充実した人生への鍵、裕福な人こそが勝ち組、そして社会の上層部へのアクセスは家族・人種・社会といった諸背景と関係なく、懸命に働きたい者なら誰にも開かれているという考え方が制度的に後押しされることだ。あなたが成功できないなら、責められるべきはただ一人、自分だけなのである。
同上

表向きは反・スターリニズムと思われる新労働党の新自由主義政権も同様に、現実世界への影響が(広報、つまりは)見せ掛けのレベルで認識されない限り意味をもたないような政策を実施する傾向を示してきた。【中略】悪名高い「到達目標」の設定にこだわったのも、まさにひとつの適例だろう。労働パフォーマンスを測定するための手段である到達目標は、それが設定されるとすぐさま自己目的化してしまうのだが、このプロセスは到達目標が設定される度にほぼ確実に繰り返される。
【中略】
こうした市場型スターリニズムを、資本主義の「真の精神」からの逸脱だと誤解してはならない。むしろ反対に、社会主義のような社会性を重視する運動との連携によって抑制されていたスターリニズムの本質的な側面が、後期資本主義という、イメージが自律的な力をもつようになった文化においてこそ、はじめてその姿を現すことができたといった方が正確なのではないだろうか。株式市場で価値が生成される仕組みはもちろん、ある企業が「実際に何をしているか」というよりも、その企業が(将来)いかなる実績を示すかに対する見通しや意見によるところが大きい。つまり資本主義では、形あるものみな広報へと消えゆくのであり、そして後期資本主義は少なくとも市場原理の導入と同程度に、この広報的生産の偏在化という傾向によって特徴づけられるのだ。
同上

以前の発言を取り消すことは、いっさい問題にならなかったし、まるで、また別の話があったことさえも、うろ覚えでしかなかったような印象だった。これが「優れた管理能力」というものらしい。同時にまた、これは資本主義の絶えざる不安定さの中で健康を保ち得る唯一の方法なのかもしれない。一見したところ、このマネージャーは輝くような精神保健(メンタルヘルス)を体現した典型例であり、彼の全身からはまぶしいばかりの善人的なオーラが放射されている。このような陽気さを保ち得るのは、批判的な反省性をほぼ完全に欠き、そして彼のように、官僚主義的権力から受けた指令に冷笑的(シニカル)に従う能力を身につけている者に限る。もちろん、この服従についての冷笑主義(シニシズム)こそが不可欠なのだ。自分がまじめに実行している監査手続きを「本当は信じない」ことによって、彼は六十年代的なリベラルとしての自己像に傷を負わずにいられるのだから。
同上

新保守主義と新自由主義との奇妙な融合が可能になったのは、彼らが共に、いわゆる過保護国家(ナニー・ステイト)とその依存者を嫌悪の対象にしてきたからなのだ、という仮説を立てることができるだろう。反国家主義的なレトリックを明示しているにもかかわらず、新自由主義は実際のところ、国家そのものに反対しているのではなく、むしろ、公的資金の特定の運用に反対しているのだ。
同上

コールセンターという経験は後期資本主義の政治的現象学を凝縮したものである。【中略】倦怠感ともどかしさ、訓練も知識も不足している何人ものテレオペレーターに同じつまらない情報を何度も伝えることの繰り返し、しかるべき対象が存在しないゆえに無力なまま募るばかりの怒り。【中略】答えを知っている者は誰もいないし、もし知っていたとしても何かをやってくれる者は誰もいないのだ。ここで怒りは、はけ口を探す問題としかなりようがない。それは同じシステムの被害者でありながら、共感のしようが全くない他人へ向けられた、真空地帯のなかの攻撃なのだ。怒りには全うな対象がないために、影響力をもつこともないだろう。この無反応そして非人格的な、中心不在の抽象的かつ断片化されたシステムの経験において、あなたは資本の人工的な愚かされそれ自体を直視するのに最も近いところにいるのだ。
同上

企業構造が回避する倫理的責任を直ちに個人に押しつけるのは誤りだ。
【中略】
行動の責任を問われ得るのは個人のみであるにもかかわらず、それら不正な行為や過ちの原因は組織的・体系的であるというこの手詰まりは、単なる真実の隠蔽ではない。それがまさに、資本主義の欠点を指し示しているものなのだ。どのような行為主体性(エイジェンシー)によって非人格的構造は規制・管理され得るだろうか?企業構造を罰するのはいかにして可能なのか? もちろん法的には、企業組織は個人と同様に扱うことができる。だが問題は、企業は実体をもつものの人間の個人とは異なるがゆえに、企業に対する処罰と個人に対する処罰とのあいだのアナロジーは必然的に不十分だということにある。いずれにせよ、企業組織が万事の裏で糸を操る深層的行為者(エイジェント)だというわけではない。それらはあの究極的な「主体ならざる原因」によって制約されているのであり、またそれを表現しているにすぎないーーすなわち、資本を。
同上

脚本を書き上げるつもりだったがほぼ読書に逃避。

「ビリー・サマーズ」下巻を読み進める。

夜は参考になるドラマや映画を観て脚本に戻るつもりが、23時頃には撃沈。

6月18日(水)

深夜に目覚め「ビリー・サマーズ」(スティーヴン・キング/白石朗 訳)読了。

評判通りの、巨匠の円熟の域に達した傑作犯罪小説を堪能。

50年近い作家人生でたどり着く境地。

サスペンスやミステリー部分の面白さはもちろんのこと、特に下巻でキングがストレートに「書くこと」への愛や熱を表したことには感動した。

そして子供や若い女性への暴力、性犯罪を本当に憎んでいることも伝わってきた。

二度寝して7:15起床。快晴。今日も暑い予報で、8時台で既に30度超え。

今日中に脚本を完成させようと冒頭を書くが面白いと思えず、以降は進まず。

映画の日で何か観るのも諦めて書こうとするが結局は読書などに逃げてしまう。

こういう時間も必要と思いたいが。

スティーヴン・キングの「書くことについて」を読み直していたら、以下の箇所に線が引いてあった。

気分が乗らなかったり、イメージが湧かなくなったからといって、途中で投げだすのはご法度だ。いやでも書きつづけなければならない。地べたにしゃがみこんでシャベルで糞をすくっているとしか思えないようなときに、いい仕事をしていることはけっこうあるものだ。
スティーヴン・キング「書くことについて」(訳/田村義進)

脚本の参考にU-NEXTで映画『トレーニング デイ』再見。2001年の公開時に劇場で観た記憶だけある。

新人刑事のイーサン・ホークが初めて現場に出た日、指導担当の悪徳刑事デンゼル・ワシントンに翻弄されついには殺されかける、というストーリー。

暴力も辞さないパワハラ上司、最悪だ。

これは完全に悪役デンゼル・ワシントンの演技を観る映画。

当時は上品なイメージだったデンゼルが、ちゃんと悪そうで怖いのが凄い。

実際のデンゼルも若い時は荒れていたらしい。

オスカー獲っても良かったのにと思ったら、これで(黒人として初めての歴史的な)主演男優賞受賞。それは忘れていた。

こういうジャンル映画で演技賞というのも凄い。

6月19日(木)

7:00起床。快晴。今日も朝から真夏の日差し。

脚本を仕上げようと四谷のサンマルク、休憩所で午前中粘るもしっくり来ず。

結局一日かかって24時前、〆切ギリギリで送信。

分量は少なくても速く書けるわけではないな。

6月20日(金)

7:40起床。曇り。日差しが少ないので昨日までよりは涼しいが湿気が辛い。

とか言ってたら晴れて暑い。

青山一丁目と乃木坂の間にあるおしゃれカフェで脚本打合せ。

その後一人で適当な店に入ろうと、青山通りを西に歩いていたら渋谷まで着いてしまう。

HMV&BOOKS SHIBUYAで漫画「8月31日のロングサマー」①(伊藤一角)、文庫「スイッチ 悪意の実験」(潮谷験)、新書で「東大生はなぜコンサルを目指すのか」(レジ―)、「働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている」(侍留啓介)を購入。

井の頭線で下北へ。

OFF・OFFシアターで三月倶楽部「センスセンスセンス・オブ・ワンダー」観劇。

橘花梨さんご出演。

これが旗揚げだったらしい。

受付で久しぶりにAさんとも再会。お元気そうというか、この人も変わらない。なんかシュッとしたお洒落な感じにはなってた。

花梨ちゃんとご挨拶して帰宅。

6月21日(土)

8:00起床。快晴。

昨日買った「8月31日のロングサマー」1巻、とりあえず読んでみようと手に取ったら面白すぎて一気読み。すぐに2巻以降も欲しくなる。

8月31日をタイムループし続ける高校生男女二人のラブコメ。ギャグセンスも良い。

たったの6ページ、20コマ目には設定を説明しきるスピード。

今ちょうどショートドラマの脚本をやっていて、短尺で簡潔に面白みを伝えることがいかに凄いか痛感する。

というわけで自分も脚本やろうとするが午後からやたら眠くて逃避。

最近、昼寝しないと駄目な体になってる。

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