2025/6/8-6/14
6月8日(日)
10:30起床。曇り。
公演終了後、カーテンを閉めるようになってから途中覚醒は無くなった気がするが、流石に寝過ぎ。
起きてる時間帯に頭がクリアであれば理想的だが、現状はどうなんだろうか。
プロット作業、なかなか集中できないけど何とかノルマ時間はやる。
あとはYouTube、ドラマ、読書など。
6月9日(月)
9:00起床。曇り。
プロット、今日中に書き上げたかったが辿り着かず。
まだ〆切前だけど早めに進めたいものだ。
という気持ちはある。
夜はさよなら人生ミーティング。
一週間前の話をふまえ、改めて各々の意見をわりと正直に話す会。
方向性はまとまりきらないが、おおまかな次回のスケジュールを決め、今後は短いスパンでミーティングを重ねることで一致。
一人一人が前のめりな感じで、それは良かった。
居酒屋で定食を食べて解散。
深夜、目が覚めて眠れなくなってしまい暫し読書。
6月10日(火)
8:30起床。雨。
関東も梅雨入りと発表。
バーガーキング、区民センターなどで作業して、プロット案を書き上げる。
あらすじはPが事前に用意してくれていたのですぐ出来るかと思ったが、そこそこ時間かかってしまった。
チェックして送信。
夜はU-NEXTで映画『オンリー・ザ・ブレイブ』鑑賞。
ジョシュ・ブローリン、マイルズ・テラー、ジェフ・ブリッジス、ジェニファー・コネリーという通好みなキャスティング。
皆良かったが、特にジェニファー・コネリーには惹かれた。
ジェフ・ブリッジスは、アメリカの田舎?の中年男性役をやる時特有の、ちょっと受け口な喋り方。それとも本人も今はああいう風に話すのだろうか。
眠くなったら途中で止めようと思ったが、最後まで飽きずに観れた。
実話を元にしたストーリーで、実際の山火事の経緯を知らなかったので結末には驚いた。
事件が2013年で公開が2017年。こういうスピードはアメリカは本当に速い。
6月11日(水)
9:30起床。曇り。今日も雨予報。
早速、梅雨の湿気が本気出してきてる。
明け方目覚めたのだが、その後の二度寝で悪夢を二つ。
一つは、街中で集団で殺し合いをしていて、自分は何とか生き延びて逃げている……というもの。
もう一つは、自分がオペをやる公演なのに開場してからも外でぶらぶらしていて、慌てて自転車で爆走して劇場に向かうが間に合うか……というもの。
二つとも夢診断したくなる。
武蔵野館で『無名の人生』鑑賞。
好評なことと、監督が独学でアニメーションを学び一人で制作していること、だけを知った状態で観たので、前半のメインとなる話(現実の事件)には「それを正面からやるのか」と驚いたし、後半は展開が加速して終末SFみたいな壮大な世界観になり、最後はもはやジャンルも変わってナラティブも前衛的で抽象的、『2001年宇宙の旅』のような難解な感じになって、やや呆然。
正直理解が追いつかず好きかどうかもわからないが、圧倒的な独創性であることは間違いない。
夜はアマプラで映画『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』鑑賞。
メインビジュアルはずっと見ていたが、それがマーゴット・ロビーだと初めて知った。
1994年のナンシー・ケリガン襲撃事件で、フィギュアスケート界のみならずスポーツ史、何ならアメリカ史においても有数のヒールになったトーニャ・ハーディングの実話を元にしたストーリー。
自分はまだ子供だったので「そんなこともあったな」という薄い記憶しかなくとも、何となくトーニャ=悪というイメージではあった。
映画を観るとそのイメージが変わるというか、具体的な背景を知って認識はだいぶ改まった。
アメリカの貧乏で教養のない家庭で、典型的「毒親」であるシングルマザーに育てられ典型的「DV男」である元夫との腐れ縁も切れないトーニャが、それでもアメリカを代表する選手になるが、「お行儀の良さ」を求めるフィギュアスケート界からは認めて貰えず……という環境。
を、突き放すでも寄り添うでもなく、シリアスよりはコミカルに、でも人物たちへのある種の愛情は持って描いていくスタンスが良い。
肝心の事件については、元夫と周囲の男たちが全員文字通りの「バカ」しかおらず、このバカたちが世紀のスキャンダルを起こしたのかの思うと唖然とするし、トーニャが気の毒になる。
スポーツ選手や芸能人が、不遇≒悲惨な環境からのし上がってスターになっても、結局は身近な限られた人間関係に縛られ搾取されることはよくあるのだろう。
クライマックス、報道が加熱しマスコミに追われ迎えたオリンピックで、トーニャ(23歳)のメンタルが崩壊する様には泣きそうになってしまった。
後半は完全にトーニャ寄りの描写になっており、「事実と違う」という批判もあるようで、BASED ON A TRUE〜映画はその辺りのジャッジは難しい。
とはいえ何かしらの「真実」は語られていると思ったし、映画としてとても良かった。
母親役のアリソン・ジャネイ、毒親どころではない絶対近づきたくない人物を演じているのだが、不思議な人間味も感じてしまう。オスカーで助演女優賞というのも納得の見事な演技。
Apple TVドラマ「フレンズ&ネイバーズ」でも監督していたクレイグ・ギレスピーは、『ダム・マネー ウォール街を狙え!』でも実話を語るのが上手かったし、悪い(とされる)人間を描く距離感が好きだ。
日本公開は2018年。会社員時代で、一応映画を作る仕事をしていたのに忙し過ぎて全然観れず、この時期の名作話題作は自分の中でかなり抜け落ちている。
6月12日(木)
6:30起床。晴れ。
梅雨の合間、ここぞとばかりに洗濯。
久しぶりに上野へ。
先日送ったプロットの打合せ。
GOが出て一安心。
夜はアマプラで映画『プロフェッショナル』鑑賞。
数あるリーアム・ニーソン主演のアクション映画……なのだが、タイトルや宣伝イメージから連想される派手な感じではない。
監督がイーストウッド組出身というのもあり、渋めで抑制された佳作。
リーアム・ニーソンは引退したばかりの殺し屋。敵がIRAのテロリストなのだが、このボスの女性を演じるのがケリー・コンドン。『イニシェリン島の精霊』の妹役などの人。
彼女本人の上品さが拭い切れず、どんなに暴言を吐いても乱暴しても、あまり怖くはない。
そのせいか緊迫感には欠けるが、それはそれで良かった。
後輩の若くて失礼な殺し屋がいい味を出してて、どこかで見たと思ったら、GOTで残酷な若王を演じていた人(ジャック・グリーソン)。大きくなったなあ。
6月13日(金)
7:30起床。曇り。
プロットを脚本に起こしていくつもりがだらだらしてしまい、参考動画を見るなどしてお茶を濁す。
「庭の話」(宇野常寛)読了。
現代の様々なトピックを縦横無尽に取り上げながら、『SNSプラットフォームに毒された世界で、「共同体」回帰せずいかに生きていくか』といった問題提起。(粗く拙いまとめですが。)
共同体ではなく個人、という宇野さんの主張には共感する点が多い。
二十世紀とは、放送と映像というふたつの技術の発展と組みあわせを用いて他人の物語に感情移入させることで、かつてない大規模な社会の形成に成功した時代だった。この間に人類は紙や画面、とくに後者のなかの他人の物語に感情移入することで、自己と社会との接続を確認していた。しかし、二十一世紀の今日において、人類は情報技術に支援され、その本来の習性を取り戻しつつある。自分の物語を語ること、その発信の内容が他の誰かに承認されること……。たとえほとんどの人間にできることが、すでに存在している支配的な意見のどれかに対して周囲の顔色をうかがいながら追従することだけだったとしても、その快楽は他人の物語に感情移入するそれを大きく上回る。
これは『TERRACE HOUSE』の視聴者による誹謗中傷が原因の自殺だと考えられている。
【中略】
このあまりに痛ましい事件の特徴は、この木村の自死の責任をプラットフォーム(Instagram、Twitter[現X])とメディア(フジテレビ)、そして視聴者が互いに押しつけあっているという醜悪な状況が出現したことだ。
【中略】
そしてこれが重要なのだが、事件後の彼らの責任の「押しつけあい」は彼らが自分たちの置かれた環境を理解し、自覚していることを示している。ユーザーの一部は自分たちに木村を中傷させたのはメディアの過剰演出と滞在時間の延長を目論むプラットフォームの設計であると述べ、メディアはユーザーのリテラシーの低さとプラットフォームの管理の不十分さを批判し、そしてプラットフォームはユーザーとメディアの責任を追及する。こうした責任の「転嫁」が可能なのは、これらの構造が情報技術によって「可視化」されているからだ。残念ながら、この人びとはみずから置かれた環境(のもたらす因果関係)を理解し、みずからのコナトゥス(恒常性を維持する力)がより強く発揮されるべく「自己の本性の必然性に基づいて行為」しているーーつまり「自由に振る舞っている」のだ。
しかしここで示されているような商店主と客、あるいは客同士の育む共同体に肯定的な可能性を見出すのは難しい。
【中略】
そして第二の理由は(こちらがより重要なのだが)、社会的な包摂を考える上で行きつけの商店の店主と親しくなるような社交的な性格の人間のモデルを考えることにほとんど意味はないと思われることだ。実際に少年期の私も近い感性を抱いていたと思うのだが、いま孤独に苦しむ人びとの多くがこの例を聞いて強く、他人事だと感じるだろう。常連になった商店やカフェで店主や他の客と仲よくなれるようなコミュニケーションのスキルがないからこそ、彼ら/彼女らは「孤独」なのだ。
【中略】
同じような批判がこの種の議論で散見される意識の高いーー社会問題に関心が高く、文化資本のあるーー人びとのさまざまな「自治」の試みの事例にも当てはまるだろう。
【中略】
前提として誤解されているがそもそも共同体とは圧倒的に強者が得をするシステムだ。
要するに、この種のロマンチックに既存の資本主義の「外部」として提示される「贈与」の経済の情報技術によるアップデートがもたらすのは結局「人間関係」をその共同体内で築いていないと必要なものが手に入らない不自由な社会なのだ。
「贈与」とか「共同体」をその表面的なハートフルなイメージに依存して主張する人は、「醤油が切れたら近所の人に貸してもらえる社会がいい」というが、それは共同体のなかで相対的によい位置にいられる人のことしか考えていない発想で、弱者のことをまるで考えていない。
もちろん、こうした周辺の人にも「優しい」制度を考えることはできるが、そもそも人間関係や共同体内の位置が生活の質に大きく関与する社会の不正義と不平等を、彼らは中学社会科の教科書の内容と一緒に(おそらくは資本主義批判というロマンチックで大きな話をしたい、という欲望をうまくコントロールできずに)忘れてしまっているのだ。
答えはすでに明らかだ。たとえその人がどこの誰で、過去に何があろうと百円を商店にもっていけば百円の醤油が買える社会こそが「正義」なのだ。
この醤油の話が、最近の宇野さんの一貫した主張だ(と思う)が、わかりやすい。
「敵」を更新しつづける共同体と、人間の滞在時間を換金するプラットフォームは共犯関係にある。そしてプラットフォームにとどまっている人は、そこからどこにも移動できないのだ。
では、どうするべきか?
ここであらためて考えてみたいことがある。それはいま、社会福祉の「敵」として「ケア」の対象になりつつあることだ。しかし、ここではそのポジティブな可能性について考えてみたい。そしてそれを私たちは「孤独」と呼んでいる。
最近は「孤独」が悪者扱いされ過ぎ、という話には賛同。
人間はときに、孤独で「も」あるべきなのだ。共同体への回帰は強者たちによる傲慢な主張だ。すでに社会的な地位が確立された人びとの語る仲間という言葉に、絆という言葉に、関係性という言葉に、私は安易さ以上のものを感じることは難しい。自分が強い立場で臨めば、あるいは他の場所で生活が保証された状態で外部から気軽に触れれば、地元の人の集う商店街のカフェもスナックも居心地がいいだろうし、大きな声でそれが弱者のためのセーフティーネットであると善人顔して主張することもできるだろう。しかし、ほんとうに「弱い」状態にある人間にとって必要なのは「ひとり」でいても寂しくない場所なのだ。
「孤独について」という題で書かれたこの章は特に興味深く読んだ。
秋葉原通り魔事件の犯人・加藤についても触れられている。
彼は孤独だったのではなく、「むしろ加藤に不足していたのは、孤独だったのではないか」という問いは、簡単には結論づけられないけど、説得力のある議論だった。
今日の相互評価のゲームが支配する情報社会においては、誰もが「何者かになること」、言い換えれば「何かをできるようになること」を志向している(させられている)。もちろん、障害者がそうではない人と同じように働けるようになること、あるいはこれまでなんらかの差別を受けていた人がさまざまなことにチャレンジできるようになることなど、誰かが「何かをできるようになること」は間違いなくすばらしい。しかし私はこうも考える。「何者かにならなければならない」「何かをできるようにならなければならない」といったオブセッションから解放されることも、同じくらい大事なことなのだ。
【中略】
誰も夕方のことを考えていない。しかし、私はこの夕方こそがいま、必要な時間だと考える。それは一日のなかばをすぎた時間だが、もう何もできないとあきらめるにはまだ早い時間だ。この時間に、ただ弛緩して、「ゆるまって」、ゲームから完全に離脱することこそが、もっとも必要なのではないか。
これらの戦争にまつわる事物の生態系は、私たち人間を惹きつけてやまない。とくに総力戦以降の戦争は、国民国家を単位とした人間社会全体を包みこむ生態系を可視化した。私たちは古代から続く英雄神話の舞台としての戦争以上に、世界でもっとも巨大で複雑な生態系のひとつとしての(総力戦以降の)「戦争」に魅せられている。それは、かつてないほど豊かな事物の生態系でもあるのだ。そしてその豊かさが、人間を惹きつけてやまない。だからこそ人間は戦争について語りはじめると途端に饒舌になるのだ。
人間は無意識に戦争に魅せられてしまう、ということも、忘れてはいけない視点だと思う。
丸山眞男【中略】は以下のように論じる。
「である」ことは共同体内で与えられる承認に、「すること」は行為に対する社会における評価に結びついている。その人が誰であったとしても「する」ことの結果に対する評価がその価値を決定するーーこれが近代社会の原則だ。
【中略】
マイケル・サンデルやデイヴィッド・グッドハートはメリトクラシーを批判する。それは言い換えれば才能と運に恵まれた人が「成功」する以外に正当な自己確認ができない経済構造に対する批判だ。これらのメリトクラシー批判が重要なのはこの点にある。
要するに「である」ことを効率よく求めると村落の外部の敵に対しては攻撃的で、内部の秩序は「いじめ」で維持される共同性に陥り、「する」ことを求めるとメリトクラシーの肥大を呼ぶのだ。
ここで選択すべきは、いま市場において支配的な二十一世紀の〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーとして自己啓発に勤しむ(ことで世界に対し現状肯定の言葉しか語れなくなる)のでもなければ、資本主義の外部を提示すること(左翼的に振る舞うこと)を手段ではなく目的と化して、理論的にも破綻し実証的にも足りない事例をロマンチックな修辞で誤魔化しながら陶酔気味に語ることでもない。
糸井重里は吉本の思想をこの国でもっとも早く、大規模にインターネット上で展開した存在だ。
【中略】
そもそも現代のプラットフォームに氾濫する共同幻想の多くはそして八十年前にこの国を支配していた共同幻想は、トップダウンに与えられたイデオロギーではなく、ボトムアップに立ち上がり「空気」として拡大していった共同性の産物だったはずだ。
たしかに糸井の「語り口」に基準を置くやりかたはトップダウンのイデオロギーの解毒には有効かもしれない。しかしボトムアップの「空気」の解毒にはどうだろうか。「空気」を読んで、「余計なこと」(たとえば「正しさ」)を口にしないという糸井的な「語り口」優先の態度こそが「空気」の支配を生んでいるのではないだろうか。
【中略】
「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」ーーこれは『ほぼ日』のキャッチフレーズだ。この「ゴキゲン」と「中くらい」を保つために、共同体の隅で虐げられている人間が「空気」を読まず「正しさ」を真剣に訴えることを、糸井は結果的に否定してしまう。この「語り口」が、戦後日本を支配した「政治的なもの」から距離を置くことが成熟だと考える文化に、そして民主主義に対するニヒリズムに結びついている。社会ではなく自己をチューニングすることを常に選ぶ戦後日本的な大衆の姿がここに表れている。そしてこの大衆は旧来の村落や勤務先の集団に埋没し、家庭では戦前よりはいささかマイルドになった家父長制に思考停止するもっとも「自立」から遠い存在でもあったのだ。
しかし今日においては、その「制作」した事物が市場で売れる(つまり「労働」化する)か、「制作」に従事することが共同体から承認される(つまり「行為」化する)ことに比べて、「制作」そのもの、つまり事物を「つくる」ことそのものの与える世界に関与する手触りは(情報技術の支援が弱いので)相対的に「感じづらい」。
最終的な結論は、ハンナ・アーレントを引いて「制作」というキーワードで語られる。
ここは理解しきれたか自信が無い。
というかそろそろアーレントは読んだ方がいいんだろうな。
一点、宇野さんが毛嫌いする「飲みニケーション」だけは、少人数の気心の知れた飲み会は個人的には楽しいので続けていきたい笑
というわけで(?)夜はいつもの焼鳥やさんで、先日の公演を観に来てくれたGさん、Mさんと飲む。
このメンバーで飲むのはかなり久しぶりというか初めてかも。
懐かしい話から近況まで。
楽しかった。
6月14日(土)
9:00起床。曇り。
じめじめしたいやな気候。
のせいか、夕方長めに寝てしまう。
「ビリー・サマーズ」(スティーヴン・キング/白石朗 訳)上巻読了。
昨年のミステリー界の話題作。流石に面白い。まさに円熟という感じ。
アマプラで『ザ・コンサルタント』再見。2の配信が始まったので、復習のため。
ベン・アフレック主演、2017年の公開時に映画館で観たはずで、「面白いけど変な映画」という記憶のみ。
改めて、自閉症の会計士で仕事は完璧、戦えば接近戦も射撃も無敵、という主人公の設定も、撮影もアクション演出も面白い。
アナ・ケンドリックも良い。
ただ、主人公が裏社会に関わる経緯や過去の説明が入り組んでいて、今回もよくわからず。
とはいえ2を観るのが楽しみにはなった。
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