2025/8/3-8/9

第96号
上野友之 2025.08.10
誰でも

8月3日(日)

喉が痛く体も怠く風邪っぽい感じでなかなか起きれず10:00。くそ!

晴れ。わざわざ書くまでもなく連日の酷暑。

iPadのWordで某書類を作成していたのだが、保存忘れというあまりにも初歩的なミス。

今は基本的にどこかに自動保存されるはず、と色々探すがそれも無く。

数時間が無駄に。くそくそ!

夜、ついつい「イエローストーン」Season5を見続けてしまう。

この、なんの義務感もなく、見たいという気持ちを純粋に刺激されて見るのが本来のエンタメ受容と思う。

もはや登場人物たちと知り合いのような感覚。

8月4日(月)

8:00に目覚め、暫しだらだら。昨日ケアしたのに喉の痛みは悪化してる感じ。くそ!

近所の耳鼻咽喉科が閉院したのを知る。開院は自分が生まれる前、つまりは50年近く続けていたらしい。お世話になりました。

今日も晴れ。

風邪だから仕方ない、ということでひたすら「イエローストーン」。面白い。

8月5日(火)

まだ風邪の怠さが残っており10:00になってようやく起きる。晴れ。

関東では40度超の箇所もあったらしい。

所用で外に出た他は、引き続き安静ということにして「イエローストーン」最終章完走。

テイラー・シェリダンお疲れ様でした。

シェリダン、最後に自分の役に見せ場を用意して自分でノリノリで演じてたのが面白かった。

男からも女からもモテるイケイケの役を自分に当て書く。

現場ではどんな感じになるんだろう。しかも最終話は監督も自分。

シェリダン本人は、マッチョなリアル・カウボーイなのだが(乗馬がマジで上手い)、その人が、これだけの質量の脚本を書き続けている不思議。

その思想性?から本国の批評家筋やリベラル寄りの賞や業界からは敬遠されているようだが、

圧倒的な才能は、錚々たる俳優陣が挙って参加するのを見ても明らか。

これからもついていきます先生。

中野坂上の文教堂で漫画「アンゴルモア 元寇合戦記 博多編⑪」、文庫で「火山のふもとで」(松家仁之)、「眠れるアンナ・O」(マシュー・ブレイク)購入。

8月6日(水)

7:30起床。晴れ。

80回目の広島原爆の日。

東京は37度までいったらしい。

風邪は落ち着いたかと思ったけどまだ怠さが残り、映画観に行くのは断念。

テイラー・シェリダン関連のYouTubeを探索。

今、Google AI Studioに動画を貼り付けると、翻訳も書き起こしも要約もしてくれる。凄い。

以下の動画の中でのシェリダン発言。

The only thing that you can control is how hard you work.

There are many a much smarter writer in Hollywood sitting around with a much better half finished script than my completed ones.

It's the one thing we can control.

You can control how hard you work and you'll beat 95% of your competition by outworking. 

あなたがコントロールできる唯一のことは、どれだけ努力するかです。

ハリウッドには、私よりもずっと優れた脚本を半分ほど完成させたまま放置している、私よりもずっと賢い脚本家が数多くいます。

それが私たちができる唯一のコントロール可能なことです。

あなたがどれだけ努力するかをコントロールできれば、努力で95%の競争相手を凌駕できます。

(DeepL訳)

どのAI翻訳もwork hardを努力と訳すけど、やはりそのままwork hardがしっくりくるな。

うーん、まさにシェリダンのドラマで登場人物が言いそうな台詞だ。

奥さんが妊娠し、生活のために俳優業を辞め脚本を書き始めた時、既に40代。

やってみたらすぐに上手く書けて、そこからここまでのクリエイターに。

まさに天職というか、アメリカン・ドリーム的な人生。

「デアデビル」Season3完走。ようやく「デアデビル:ボーン・アゲイン」の予習は完了。

8月6日にアメリカのドラマのことばかり書いている己。

8月7日(木)

8:30起床。曇り。

なんだかまだ体が怠く、鼻水も出る。

8月8日(金)

明け方目覚めて二度寝して9:00起床。晴れ。

何度か雨が降り、その分少し涼しかった。

マシュー・ブレイク「眠れるアンナ・O」(池田真紀子 訳)読了。

二人の友人が刺殺された現場で夢遊病状態で発見され、そのまま4年間も眠り続ける女性。

彼女は犯人なのか? 責任能力はあるのか? どうすれば目覚めるのか? 誰かが彼女を操っていたのか? というミステリー。

彼女を診察する睡眠専門家をメインに、視点や時間が行き来しながら展開する。

欧米では話題のベストセラー、映像化も進行中、新潮文庫の海外ミステリーでも今年の一押し、みたいな売り出し方で楽しみに読んだが、思わせぶりな文章が続き「速く先に進めろよ!」と思ってしまった。

力作だと思うけど、600ページ以上のボリュームが必要だったかは疑問。

とにかく人の作品にはいくらでも文句を言える。

「生存放棄症候群」という病名が出てくるが、難民など深刻なトラウマを抱えた人、特に子供が目覚めなくなる症状は実際にあるという。

あと、「影の内閣」という単語が頻出し、悪の組織か?と思ったら、イギリスの野党による政策機関とのこと……無知にもほどがある。

夜は赴任先のシカゴから一時帰国中の高校時代の友人Mと飲む。約半年ぶり。

なぜか「二人で会う時は上野でフグ」というのがほぼ決まりになっている。

高校の同級生たち(半分くらいは顔と名前が一致しない…)が、CEOとか院長とか役員とか、とにかく「偉い」肩書きになっていることを知る。

44歳の年なんだから当然なのだが、自分は18歳のままとまでは言わずとも、20代後半くらいのメンタリティなので、ちょっと呆然ともする。

ついこの間まで「同級生はもう家買って子育てしてるのに(それはMも)、俺は……」とか思ってたのに、いまや「同級生はもう社長とかなってるのに、俺は……」状態になってしまった。

Mが思った以上に漫画好きで、今もアプリでたくさん読んでいると知り、おすすめを教えて貰う。知らなかった面白そうなタイトルばかり。

制作会社時代は、映像化できそうな漫画を探すのも仕事の一つだったので、当時からもっと相談すれば良かった。

それにしても、10代の頃からお互い知っている友人というのは本当に貴重だ。

俺ももっと頑張ろう。と会う度に思うのでした。

ありがとう、またね!

「だれのための仕事――労働vs余暇を超えて」(鷲田清一)読了。

副題の通り、労働にまつわる論考。

鷲田さんの本をちゃんと読むのは初めてかもしれないが、なんとも端正な文章。良い意味で、本当に頭の良い学者さんが、丁寧に綴ったという印象。

1996年(補章は2011年頃に追記)の本だけど、今に通じる点も多々。

以下、メモ的な引用。

この《労働社会》を貫通している、つねにより効率的な生産をめざさなければならないという強迫観念、もはや「禁欲」としてすら意識されないこのインダストリー(勤勉・勤労)の心性は、一種の〈労働〉フェティシズムとして規定することができるだろう。そしてまさに近代社会は、このフェティシズムによらなければ動かなかったのである。
 何をやりとげたか、その仕事(work)の成果(work)、つまりはなしとげた業績(work)や生み出した作品(work)が、そのひとの存在をかたちづくるという、そういう観念が、こうして近代人の意識のなかに深く深く浸透していったのであった。手帳のなかに「進行中の仕事」がいっぱい書き込まれていると、やっと安心できる、そのような心性が形成される。
「だれのための仕事――労働vs余暇を超えて」(鷲田清一)

 高度消費社会では時代はさらに進行し、ボードリヤールも指摘するように、「労働・利潤・合理性というなまぐささむきだしの現実と見たところ真反対のもののように思われるイデオロギー的価値のあれこれが光明に結びつけられる」必要に迫られるようになっていく。より高く、より速く、より高度に、といった姿勢は、今日では生産や流通の場面だけでなく、遊びや社交や快楽の場面など、もともと効率や速度とは無縁な生活領域にまで浸透した普遍的な心性となっている。この社会はどうも長く、安定と停滞とを徹底して忌避してきたようだ。
同上

 ヴェイユが指摘したもっとも重大な事態は、意識が眠ること、批判の眼も摘まれ、根こそぎにされることだ。むしろ完全なまでの隷属状態に、こころが魅入られたように向かうということだ。「不幸の第一の結果は思考が逃亡を欲しているということである。思考はみずからを傷つける不幸を眺めることを欲しない」と、別の文章のなかで、ヴェイユが痛切な思いで書いている。
同上

彼が脱工業社会とよぶもの、つまりはわたしたちの現在の高度消費社会においては、生産労働というかたちでの仕事はかならずしも満足感を与えるものではない。

 労働者の生活にとっては、仕事というものは、必ずしも積極的な意味をもってはいないのである。ただし仕事がなくなるということが、彼らにとっては積極的な没落感を伴うのだ。……労働者たちが求めているのは、何かの仕事をもつことによって、自分自身の存在意義を明らかにし、定期的に作業を続けることによって、生活が規則正しくなるということなのである。

『何のための豊かさ』のなかで、リースマンはそのようにいう。
同上

かつて仕事が卑しい作業と考えられていたときには、上流階級とは有閑階級のことを意味したが、今日では逆に、暇のないひと、やりがいのある仕事をいっぱい抱え込んでいるひと、つまりは、仕事が遊びとなり、遊びが仕事となっている「やり手」たち、エグゼクティヴたちが、かつての有閑階級の地位を占めているといえる。
同上

何らかの意味で存在を揺さぶる可能性のない仕事など、およそ生きがいとはなりえないということである。そこから、仕事か遊びか、労働か余暇かなどといった二者択一が問題なのではなくて、同じ行為がどういうきっかけで愉しみになり、どういうきっかけで労苦になるのか、その転回軸を見定める必要がでてくる。
同上

「ともに生きてある」という感覚が仕事のなか、遊びのなかで生成するとき、あるいはまた、わたしたちそれぞれがそれとの関係でじぶんをはかる、そういう軸のようなものが、世界のなかで、そしてわたしたちのあいだで生成しつつあると感じられるとき、それをひとは「ときめく」と表現するのだろう。現在を不在の未来の犠牲にするのではなく、〈いま〉というこのときをこそ、他者たちとのあいだで「時めかせ」たいものだ。
同上

 世の中を見渡せば、税金を、あるいはサービス料をちゃんと払っているのだから、わたしには落ち度はないと、役所や企業に猛烈な苦情をぶつける「クレーマー」ばかりがめだつ。「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレームが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいていない。
 支えあいなしに人は生きていけない。その支えあいがサービス業務としてシステム化されてゆくプロセスは、各人が自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。そのことに気づいたひとは、社会のシステムに生活をすっかり預けるのではなく、目に見えるまわりの他者とのあいだで心くばりや世話をいつでも交換できるようにしておくのが、起こりうる危機を回避するためにはいちばん大事なことだと知っている。
同上

8月9日(土)

8:30起床。曇り。

80回目の長崎原爆の日。

長崎で「あと一週間早く負けていれば、みんな生きていた」と言った人がいたという。

昭和20年の8月15日以降、無数の日本人がそう思っただろうし、殊に広島・長崎の人々の無念さはいかばかりだったか。

某件のネタ出し。

Mに教えて貰った漫画をアプリで色々読み漁る。

30度くらいの気温だともはや涼しく感じた。

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