2025/8/10-8/16

第97号
上野友之 2025.08.17
誰でも

8月10日(日)

8:30起床。雨。久しぶりに30度いかない予報。それだけでかなり涼しく感じる。

諸々作業して、夜はさよなら人生・リモートミーティング。

「デアデビル: ボーン・アゲイン」完走。

2:00くらいに寝る。それだけで夜更かししたなと思うようになった。

8月11日(月祝)

9:15起床。雨。

漫画の影響で新しい設定を思いついて、そのプロットを考えたり、関連作品を調べたり。

「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」(済東鉄腸)読了。

タイトルそのままのエッセイ。

まさにこの人にしか書けないボイスに満ち満ちた文章。波動が強い。

そこでビールを飲みながら、妙な酔っ払い方しながら「就活、失敗しました〜」とか、結局最後まで名前すら定かじゃない人にヘラヘラしながら言ったんだよ。この軽薄さだけは妙にハッキリ覚えてる。
 つまり、とうの俺自身が傷ついた自分をまともに扱おうとしなかった、不誠実だったってことだな。そんなんだから、四年の末に力尽きて、俺の心は実家の部屋に崩れ落ち、身動きが取れなくなる。こっからの麗しの引きこもり生活が幕を開けたんだ。
「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」(済東鉄腸)

→「とうの俺自身が傷ついた自分をまともに扱おうとしなかった」とか誰しも身に覚えがあると思うが、体重の乗った文脈の中でスッと言語化する的確さ。

 俺たち引きこもりは、自己肯定感がマリアナ海溝の底よりも更に深い場所に沈んでるんだよな。このマジで絶望的な状況に耐えるため、自尊心は天よりも高い場所にある。鼻がマジで地球突き抜けるくらい高くなってんのよ。そうじゃないとバランス取れないからね。そしてこれが強大すぎるエゴイズムとナルシシズムに繋がるんだ。
 俺自身、この自己肯定感と自尊心の多大なるギャップをヤバいと思っていて、何とか是正しようとしていた。そして数えきれないくらいの失敗をやらかしてきた。
 そこで空しさにうちひしがれてた時、現れたのが「俺」なのさ。一回この状況に開き直ってみりゃどうだ?  
 ナルシシズムってのは日本語にすりゃ「自己愛」だ。悪い意味として使われちゃいるが、でも漢字をよく見ろ。「自己を愛する」んだよ、それってそんな悪いことか? 自分が自分を愛せなきゃ誰が愛するんだよ? 
 一回、堂々と自分を愛してみせろよ。  
 そして堂々とお前自身「俺」と言ってみろ!  
 こういうわけで、この「俺! 俺! 俺!」っていう本が生まれてしまったわけよ。
同上

今まで過去は全部クソで、未来は一切存在しないで、ただただ苦痛の現在を過ごすってそういう日々だった。でも今は俺の過去もそんな悪いものじゃないかもとか思えたり、何より未来について考えるって余裕ができたんだ。今度はクローン病のエッセイ集を書きたい、「東欧の想像力」シリーズから俺の作品集が出したい……悪くない気分だよ。
【中略】
 そしてもう一つ。この本はまず俺自身のために書いたんだけども、俺みたいなやつのためにも書いてる。つまり、文学が好きでそれで世界に打って出たいとか思いながら、体が弱いだとか、財力や時間がないって理由で、どうしても日本で燻ってしまってる、部屋に引きこもってしまってるようなやつのためだよ。実際に外国に移住したり、世界を飛び回ったりして、外国語で小説とか詩を書いたり、文学を研究しているって人間に比べて、自分なんかウンコやんってへこんでるアンタだ。
【中略】
 だが俺はアンタにこそ、他にはない可能性があるって信じてるよ。何でってそれは俺だからね、自分なんかダメダメだと思い続けていたかつての俺。外国に行く必要がないとは言わないよ、行ける機会があるんなら行くべきだ。だが今立っているその場所でもやれることがある、その場所でこそ成し遂げられることがある。
同上

 ありがとう、TwitterとFacebook。確かに SNSっていうのは危険な側面もあり、のめりこみすぎれば人生が破壊される可能性もある。
 だがまともに外にも出れなかった俺にとって、この二つは世界へと俺を繋げてくれるどこでもドアだった。そしてここを通じて出会い、支えてくれた人々のおかげで今の俺がいる。SNSがもたらした幸福と騒動へ、同時に感謝を捧ぐ。
同上

言葉の並びからテンションが伝わってくる。熱い。

U-NEXTで映画『ローラとふたりの兄』鑑賞。

これまたタイトルそのまま、35歳の末娘ローラと、歳の離れた40代の兄ふたりの家族劇。

両親は亡くなっており、三人は定期的に墓の前で待ち合わせる時間を持つ。

結婚、失業、離婚、出会い、病気など、それぞれの人生にやってくる喜びと悲しみ。

日本版のキャッチコピー「家族も、人生も、ままならなくていとおしい。」、まさにその通りの映画。

と書くといかにもありふれた話のようだけど、やはり「人生悪くないかもな」と思える作品は良い。

日本公開は2021年。当時は知らなかった。

ますます洋画の日本上映が少なくなる中、このての映画も減っていきそうだけど、せめて配信だけでもやって欲しい。

兄娘三人の魅力で引っ張る映画でもある。長兄を演じたジャン・ポール=ルーヴが監督もやっている。笑わせてくれる。

主演のローラはリュディヴィーヌ・サニエ。いくつになっても独特の可愛らしさ、色気があり、ふとした時には少年のような表情もする。

フランソワ・オゾン作品で出てきた時は性的に奔放な役柄でバンバン脱ぐイメージだったけど、いい歳の重ね方してるな。『スイミング・プール』からもう20年以上か。

最近、クラシコム青木さんの動画やPodcastを聴いているのだが、↓の中で話された「自転車理論には膝を打った。

僕はビジネスに限らず色んなケーパビリティ、個人に宿るケーパビリティっていうのは、自転車に乗れるってことにすごい似てるなと思うんですよ。

自転車に乗れるって、すごい身体知だなと思っていて。

自転車に乗ること一切しないままに乗り方の本とかめちゃくちゃ読んでも絶対乗れるようになんないじゃないですか。

で乗れないで転んでる間に学び1ミリでもあるかっていうと学び全く無いんですよ。100回転んでも乗れるようにならないけども、乗れた瞬間に全てが分かって、一生忘れないんですよ。

つまりどういうことかっていうと「成功の瞬間にしか学びが無い」ってことですよ。

そして成功すれば全てが分かるんですよ。

ただ、子供用の自転車にさえ乗れればロードバイク乗るのはすぐなんすよ。

だから、小さい成功でいいんですよ。

だから、小さい成功をどう見つけるかっていうことがすごく重要で、それは身体知になるんでもう瞬間に全てが分かるんですよ。

自転車の例えで「何回も転んで学ぶんだよ」みたいな、「早く転べ」とかっていう言い方する人いるじゃないですか。僕はあれは凄く間違ってると思っていて、転ばなくても学べるはず。成功すれば。

8月12日(火)

7:30起床。曇り。朝は涼しく感じるようになってきた。

午後から小雨が降り続き、ねっとりとした湿気。

所用で新宿西口に行き、ついでにブックファーストとダイソー(同じビル)に行こうと、都庁前への地下通路を歩くも、いくら歩いても辿り着かない。

ようやく、ここの地下通路は並行して二つあることに気づいた。

正確には途中で合流するのだが、東京に住んで早25年、新宿区民としても20年、この地下通路も何度も通ってきたのに、今まで知らなかったとは……狐につままれたような気分。

そしてネットで検索しても、意外とそれぞれの正式名称はわからない。

おかげで時間がなくなりブックファーストは断念。

夜は倉田さんと次回公演の脚本打ち。

去年書いてから寝かせていたものを、どう改稿するか話し合う。

意外とよく書けている。

初稿を書き上げてから上演まで約2年。

演劇でここまで時間があるのは初めてだな。

まだ半年以上あるので時間の余裕を有効活用していきたい。

二人でラーメン食べて解散。

日航機の事故から40年の日。

日本の8月は、6日、9日、12日、15日と、死を意識する季節。

更にお盆が重なるわけだが、終戦記念日と一緒なのは偶然だという。それも不思議な感じだ。

8月13日(水)

8:45起床。曇り。

某件のプロットのネタ出しをするが、漫画やドラマに逃げてしまう。

「イエローストーン」を見るために今月だけ加入したWOWOWオンライン、Paramount+のドラマも加わっていると知り、気になっていた「モブランド」を見ている。

我ながらもうクライムものはいいだろと思いつつ、なんだかんだ面白くて最新話まで。

ガイ・リッチーも製作・監督で参加しているが、いつもの軽妙さよりはややシリアスめ。暴力はいつも通り容赦ない。

キャラクターが見事に全員立っている。ギャングのボス夫妻がピアース・ブロスナン&ヘレン・ミレンで、二人とも曲者で残酷な役というのも新鮮。

8月14日(木)

二度寝してしまって9:00起床。曇り晴れ。

30度超の予報ではあるが、朝は涼しく感じる。

「〆切は破り方が9割」(カレー沢 薫)読了。

相変わらずの、まさに「カレー沢節」満載の文章。

カレー沢先生といえばとにかく、

「劣等感に苦しまずに創作したい」というのは「健康的に覚醒剤をやりたい」と言っているようなものです。

という大名言があるわけですが(ソースは↓)、今回もキレキレだった。

抜き書きするとせっかくの面白味が減るのだが、それでも引用メモ。

 私だけではなく、漫画家というのは「読めば面白いのはわかっているが、悔しくて読めない」という逆恨み作品の1つや2つ持っているものだし「俺以外の本が大量に置いてある」という理由で本屋に入れなくなってしまう者もいる。
 このように、漫画家なんかになったせいで、唯一周囲より優れていた絵で他は全て劣っているというコンプレックスを打破しようと思ったのに、余計コンプレックスが深まった上に、他に褒めるところがないから「絵が上手」「健康そう」「息してる」の三択の消去法で褒められていただけ、という事実に気づいてしまうのだ。
 「好きなことを仕事にするな」がその道で失敗した老人の寝言なのは確かだが、好きなことを仕事にした結果「今、目の前で焼き鳥の繊維を前歯に挟んだまま若者に説教を垂れる老」になる可能性がある、ということだけは覚えていてほしい。
「〆切は破り方が9割」(カレー沢 薫)

 そもそも、仕事というのは「労働」と「賃金」の取引であり、この両者さえあれば成り立つものだった。
 しかし、なまじ生活が豊かになってしまったことにより「楽しみ」が3Pを持ち掛けてきたあたりから話がややこしくなってきた。
 そもそも楽しみは「ローション」みたいなもので、あればあったに越したことはないが、なくても仕事が成立しないわけではない、という程度のものだった。
 それがいつしか、棒レベルに「オレがいなければはじまらないっしょ」と言い出したのが地獄の始まりである。
 「労働」「賃金」「楽しみ」を同列にしてしまうと「賃金が貰えるから労働する」という大原則に「労働が楽しいのだから賃金はいらないだろう」という謎方程式の闖入を許すことになってしまう。
 漫画家というのは割とその謎方程式を持ちだされがちな職業である。
同上

 同窓会に出席していいのは「今何やってるの?」という滅びの呪文に眼球が破裂しない者だけ、という世界一過酷なドレスコードがあるのは周知の事実だが、眼球爆発勢自ら「不参加」を選べるだけまだ優しい世界でもある。
 片や「親戚の集まり」というのは「手持ちで一番キレイな服がヒートテック」という人間ですら参加せざるを得ない会合なのである。
同上

 己の才能を見つけるのも大事だが、才能がないと理解することも大事である。
 人間というのは向いていないことをやると過度のストレスを感じてしまうし、周囲にも「なんでこいつ領収書出すのがこんなに遅いんだ」というストレスを与えてしまう。
 つまり、社会からストレスを減らすには「適材適所」が非常に大事なのである。
 私のようにどこにも適所がない、何に使うかわからないままずっと存在するネジ、みたいな人間も大勢いるが、それでも「絶望的に向いていない仕事」を回避し「辛うじてできる仕事」につくことは可能である。
【中略】
 自己分析に長けている人は、学生時代に「自分に社会人の才能がない」と気づき、最初から就職という選択肢を持たなかったりする。
 こうやって、親戚に1人はいる何をやっているのかわからないが、何かやって生きている、就職童貞おじさんやおばさんが爆誕するのだ。
 こういうと、就職しなくても何となく生きていけるような雰囲気がするが、何となく生きていけなかった人は死んでいるので姿が見えないだけである。
 おそらく一定数は死んでいると思われるので積極的にはお勧めしない。
【中略】
 だが、その時間が無駄だったかどうかを決めるのも自分自身である。
 たとえ、右玉と左玉を入れ替える挑戦に5年の歳月を費やし、結局諦めたとしても「時間をドブに寄付する慈善事業に5年従事した」と思えば、無駄ではない。
同上

 今年もあと3か月である。
 毎年こう言ってため息をついている人間は、時間が無限にあったとしても何も成し遂げないので安心してほしい。
 そもそも何を成し遂げていようと時間は流れるのだ。
 時間の流れを筋肉で止めることができるというなら、今年がすでに3か月しか残ってない奴は筋トレ不足だったとして反省の余地がある。
 だがきんに君の今年だってあと3か月のはずだ。
 きんに君の周囲ではまだ桜が咲いている、というなら私の認識不足で申し訳ないが、多分きんに君の世界線でもそろそろタンクトップでは辛い季節になっていると思う。
 つまり「今年もあと3か月」というのは個人の努力では止めようのない自然現象であり、これに落ち込んでいるのと同じだ。
【中略】
 しかし、世の中には「空は青いというのに俺のケツは汚い」など、意味のない自己否定をしている人間が割と多いような気がする。
 どうせ意味がないなら否定より肯定した方がマシである。
同上

 しかし自信がない奴がウザくないかというとある意味自信がある奴よりウザい。
「自分には何も良いところがない」とわざわざ言うのは、相手に対し「お前は今、何も良いところがない奴に己の貴重な時間を浪費している」と言っているようなものだし「何の取り柄もない自分とつきあってくれて申し訳ない」と言うのも「場所を取るだけの壊れた巨大冷蔵庫を家に置くなんてお前も馬鹿だな」と言っているようなものである。
 つまり過度な卑屈と自虐は周囲に対する他害になってしまいかねないのである。
 漫画も同様であり、いくら自分が駄作と思っていても、それを買ってくれた人間がいる以上「あの作品は失敗だった」とは言ってはいけないのである。
 よって私も自分のことは「酸素の無駄」と評しても自分の作品のことは「地球資源の無駄」とは言わないし、面白くないとも言わない。ただ「売れていない」という事実だけを言うにとどめている。
 つまり他人のためにも「自信」はある程度持った方が良いのである。
【中略】
 結局、自信の有無ではなく、それを他人にアピりすぎてしまうのが問題なのだ。
 そんなに他人に認めてもらわなくても、そこが他人の私有地でなければ人は存在して良いのである。
同上

 人は自己肯定感が下がっている時「自分以外はみんなちゃんとしている」という錯覚に陥りがちだが、錯覚ではない場合も多いので困る。
同上

 だからといって「漫画家は闇落ちしやすい」というつもりはない。何故なら他の職業の人もすべからく病んでいるからだ。
 エッセイや漫画ではなく、人を病ませるのは単純に「労働」である、これ以上健康保険料が上がらないように、即刻労働を法律で禁じた方がいい。
同上

私は「売れている作家」の「売れている」という事象をすべからく憎んでいるだけであって、作家個人が嫌いなわけではない。
【中略】
 そんなわけで、拒否権もなく対談をすることになってしまったが、結果から言うと楽しかった。
【中略】
  特に良かったのは、相手の作家さんもすごく悩みながら苦労してやっている、ということが具体的にわかった点である。
 そんなことは当たり前なのだが、私が一日62時間見ているTwitterに流れてくる情報というのはイーロンに魂と年間1万円を捧げていない限り140字しかないのだ。
 よって目に入るのは「100万部」や「アニメ化」そして、万単位のRTやいいねだけ、という濃縮還元サクセス成分のみなのである。
 「嫉妬心」というのは、ただサクセスした人間に起こるものではない。
 むしろ人間は「苦労して成功した人」の話はわりと好きな方である。
 しかし、Twitterだとサクセスしたという結果のみが目に映り、その裏にある苦労情報まではわからないため「何の苦労もなくサクセスしている奴」に見えてしまい、余計嫉妬心が湧くのである。
【中略】
 逆に「このTwitter漫画を一発バズらせるまでに一族郎党皆殺しにされている」などの苦労が分かれば「それなら成功して良かった」と思えるし、逆に「そこまでやって3000RTか…」と、同情心まで湧いてしまうかもしれない。
【中略】
 しかし、そのような内なる気苦労や悩みを全体公開してくれる、メンヘラアカウント人気作家というのもなかなかいないため、人気作家は難なくそれをやっているように見えてしまうし、何だったら俺以外全員上手くやっているように見えてしまうのだ。
 だが、今回、やはり他人も同じかそれ以上に苦労があるとわかって良かった。
同上

いやーもう天才としか言いようがない。

同時代の日本人で「エッセイやコラムの文章にキレがある人」でパッと思いつくのは、楠木建、鈴木涼美、小田嶋隆(亡くなってしまいましたが)など、経歴も芸風も思想もバラバラな人たちなのだが、カレー沢先生も間違いなくそのお一人。

Pと脚本についてリモート打合せ。

追加仕事の打診。ありがとうございます。

紀伊國屋書店で「ブレイクショットの軌跡」(逢坂冬馬)、「スパイたちの遺灰」(マシュー・リチャードソン / 能田優 訳)購入。

ついでに新宿で文房具もいくつか買う。

8月15日(金)

8:30起床。晴れ。久しぶりに朝から日差しが強い。

80回目の終戦記念日。

午後、外で脚本をやろうとするも、昼食がサラダチキンだけだったせいか炎天下を歩いたせいか、やたら眠くてあまり進まず。

結局、18時頃から暫し寝てしまう。

そんな風に平和を享受させていただきました。

8月16日(土)

7:00起床。曇り晴れ。

新宿駅構内で、知人の女性を見かけた。

最後に会ったのは10年前くらいか。

夫らしき人とお子さんと一緒。

約20年前、劇団を始めた頃の知り合いで、何というか、全く男っ気がないキャラだった。

結婚して出産もしたんだなあと、すれ違いながら思った。声をかける暇はなく。

スズナリでアナログスイッチ「伊能忠敬、測り間違えた恋の距離」鑑賞。

今まで観た中でも一番面白かった。

ここぞというところで客席が笑っていて、観客とのコミュニケーションも理想的に感じた。

何より脚本の設計がお見事。

作・演出の佐藤くんが執筆で苦労したのを知っているだけに、本人はあれだけ辛そうだったけど結果これ程の作品に仕上がるんだもんなあ、と改めて創作の不思議を思う。

カフェでガパオライスを食べ少し作業して、 K2シモキタエキマエシネマで映画『ひみつきちのつくりかた』鑑賞。

U-NEXTで「特殊作戦部隊:ライオネス」S2が配信されているのを知り、早速見始める。面白い。

これまたテイラー・シェリダン作品、中でもシリアスめで好きな方。

(我ながらよく飽きない。)

6月からやっていたのに日本では全く話題にならず今まで気づかなかった。不覚。

シェリダンとニコール・キッドマンという、どう考えても働き過ぎの二人の座組。

シェリダンはまたしても監督&出演も兼任し、またしても自分にマッチョでかっこいい役を当て書いている。

そしてメキシコ国境を行き来して銃弾戦をやる、という『ボーダーライン』みたいなことを自分でやっている。

倫理的にもポリティカルにもなかなか危ういところを突く脚本。

CIAの秘密工作部隊を統べる女性と、10代の娘との会話。

娘 でもなんで? 仕事はたくさんあるのにこれを選んだの?

母 ママのおじいちゃんは、幼い頃ドミニカからこの国に移り住んだ。そして1941年12月7日に17歳になった。何の日?

娘 真珠湾攻撃

母 3日後 彼は入隊した。ママのお父さんは尋ねた。祖国でもないのになぜ命を懸けるのかと。おじいちゃんは言ったわ。“英語もうまくないのにドイツ語や日本語まで習えるか” 笑い話じゃない。なぜ選んだか? あなたが中国語やロシア語を話さなくて済むように

某プロジェクトに某人がアサインされたことを知る。

この企画は自分には全く関係ないのだが、何というか一流クリエイターの布陣によるもの。

そして全く個人的な経緯から、某人に対してあまり活躍して欲しくないと思っている。俺の逆恨みに近い話。

というわけで複雑な気持ちになるわけだが、自分の浅ましい思惑は別として客観的に見ても、某人は一流布陣のセンスにはつり合わない素質の人だと勝手に思っていた。

どこの偉い人がどういう意思決定でオファーしたのだろうか。

と、またしてもここに書いても全く意味のないこと、というか書かない方が良いことを、しかし自分の感情の記録として書いておく。

某某某。

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