2025/4/20-4/26

第81号
上野友之 2025.04.27
誰でも

4月20日(日)

6:00頃には目が覚めたが体に疲れがたまっていて結局8:00起床。曇り。

稽古の影響だろうか。精神的ストレスはゼロに近いし、週に数日、4時間ずつしかやってないのに大丈夫か俺の体力。

「高尾山へ」脚本、ある台詞を直したく考えては却下し、書いては消し。これかな?というものを全体に共有。

作品の肝になる台詞なので、どこかで「これじゃ評価されないかも」「浅いと言われるかも」などと邪な気持ちが混じり思考が濁ってるのかもな。

なんだっけ、「届けと思って書くものは伝わるが、褒められたいと思って書くものは伝わらない」みたいな戒めを思い出す。

「中動態の世界─意志と責任の考古学─」(國分功一郎)読了。

2017年の本が文庫になったのを機にようやく。

國分さんの「暇と退屈の倫理学」初版は2011年、もう14年前の本か。全てを理解はできなくとも、「贅沢をしよう」というメッセージは一つの生きる指針のようにはなっている。

今回は、自由意志と責任、という大きなテーマを少しでも理解したく読んだ。

これも全てを理解したとはとても言えず、特に言語学や哲学の専門用語が並ぶと頭がこんがらがりもしたが、やはり國分さんの文章も熱意も良い。

まずこれはあとがきの抜粋だが、

 その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しみがそこにはあった。
 しだいに私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。ーーそのような気持ちが私を捉えた。
【中略】
 本書のテーマに取り組むにあたっては大きなハードルが二つあった。一つはギリシア語である。哲学の観点から中動態に取り組むためにはギリシア語の知識は不可欠であった。私は覚悟を決めて、毎週、東京神田のアテネ・フランセに通った。古典ギリシア語の手ほどきをしてくださった島崎貴則先生の授業は、自分が忘れてしまっていた、語学を学ぶことの喜びを思い起こさせてくれるものだった。授業を受けるなかで私は何度も言語そのものについて考える機会を与えられた。
「中動態の世界─意志と責任の考古学─」(國分功一郎)

うーん、かっこいい。

意志の概念を否定する本なのに、まず最初に國分先生の意志がバシッとあるような気がするのも良い。

 こうして考えてくると、あらゆる行為を能動か受動に配分することは、不正確であるどころか乱暴ですらあり、意志の概念もまたとても信用ならないものだという気がしてくる。
【中略】
 だが、こうして意志の概念や能動と受動の区別を批判できるのは、論じている側が平然としたままでいられる事例のみが取り上げられているからだとも考えられよう。
【中略】
 たとえばここで、殺人や性犯罪など、他人を直接に害する行為に話が及んだらどうか?
 これら憎むべき行為が問題となるや、われわれは、意志の概念やら能動と受動の区別やらを平然と批判してはいられなくなる。これら「乱暴」で「不正確」な概念を積極的に認めるようにすらなるかもしれない。
【中略】
 たしかに意志の概念は難題を抱えている。能動と受動の区別も不正確なものだ。だが、「意志など幻想だし、意志の概念に基づいた能動と受動の区別もまやかしだ」などと主張する者は端的に能天気である。その人物は、自らがこの概念や区別にすがらずにはいられなくなる場面が訪れるかもしれないことを想像できていないだけである。
同上

 ここから、スピノザ倫理学の一つの注意点が導き出せるように思われる。
 われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである。
 だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動はしたがって、二者択一としてではなくて、度合いをもつものとして考えられねばならあい。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らし、能動の部分を増やすことはできる。
同上

 だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
同上

「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」。
 マルクスのこの有名な一文は実に見事な文学的表現である。
【中略】
 歴史は人間が思ったようにつくり上げたものではない。だが、それは人間がつくった歴史と見なされる。ここにこそ、歴史と人間の残酷な関係がある。人間が参照の枠組みを選んだことなど一度もない。人はすぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた参照の枠組みのもとで判断を下すほかないのである。
同上

意志の概念は、過去を振り返るという人間にとってのかけがえのない行為を妨げる。責任はもちろん、帰責性までをも危機に陥れる。
(ここで一時期から盛んに耳にするようになった「自己責任」という言葉についても一言述べておくべきかもしれない。これは責任(responsibility)とも帰責性(imputability)とも違う。敢えて翻訳するならば、‘at your own risk’ という英語で表現できるだろう。「何をしても自由です。但し、あとは知りません」という意味である。これはおそらく、本稿があくまでも可能性だけについて述べている、責任のない世界、誰も誰にも応答しない世界が近づくその足音として聞こえてきた文言である。この表現の流行は、個人の「自由な選択」を称揚しつつ、中間団体を悉く破壊していくグローバリゼーションの動きと連動しているが、ここではこれ以上論じることはできない。)
同上

夜はシネマート新宿で映画『カップルズ』鑑賞。1996年の映画のレストア版。

エドワード・ヤンが映画史的に重要な監督で、観客からも映画人からも批評家からも愛され、早逝したことも含めある種神格化されているのは知っていた。

何本か観て、なんとなく凄さをわかったふりをしていた。

でもこの『カップルズ』はバチっとハマったというか、ようやく素晴らしさが実感できたかもしれない。

全ての人間関係が打算と搾取であるようにも見える資本主義下の都市(90年代の台北)で、暴力も理不尽も滑稽さも愛も同時に存在する様を映し出す。

青春群像劇のようでも、犯罪映画のようでも、不条理な暴力を描いた物語のようでもあり、プロット自体は古典的な人違いや勘違いで駆動される。

いけてる若い男たちが、女性を「共有」する様などは、現在の視点ではまさに有害で加害的で、実際にいくつかの事件も想起する。しかし返す刀で、若い男性の肉体が年配女性たちから搾取される様も描かれる。

ヒロイン?のフランス人を演じたヴィルジニー・ルドワイヤン、魅力的でどこかでみたかなと思ったら、「8人の女たち」の人か!

映画館を出ると、快適な春の気温。

そんな日曜夜に、外国人も含めた人たちが路面店で飲んでいる新宿三丁目を一人で歩いて帰るのまで含めて良い映画体験だった。

4月21日(月)

8:30起床。快晴。

新宿ピカデリーにて映画『片思い世界』鑑賞。イメージしてた雰囲気とは全く違った。こういう主題だったのか。これはネタバレ無しで語ることが難しい。

自分が信頼する評者の方を含め、同じ坂元脚本の内、『ファーストキス 1ST KISS』を絶賛、『片思い世界』を酷評または戸惑い気味に語る人がほとんどだった。

でも自分の感想はほぼ真逆。

やはり自分で観ないとわからないなと痛感。

個人的には前者に作為を、後者に祈りを感じた。

以下ネタバレ。

人気女優三名によるふわっとした日常恋愛もの……ではなく、かなりシリアスで重いテーマだった。

三人は、子供の頃に遭遇した児童殺傷事件で殺された幽霊。

一見普通に生活しているように描かれるが、他の人間からは見えない。

この時点で、いくつかの悲惨な事件が思い起こされる。

現実であまりに理不尽に奪われる子供の命に、物語はどう向き合うのか。

このテーマを扱う態度として、話の展開や描写には危うい点も感じられたが、それも含め製作陣が真摯に立ち向かったようには感じられ、今の社会に必要なのは『ファーストキス 1ST KISS』よりはこれでないかと思った。

観て良かった。

夜は稽古。

劇中の夫婦の場面をわりとしっかりと。

Aさんと駅までの道を話しながら帰る。

4月22日(火)

8:30起床。晴れ。

ル・シネマ渋谷宮下で映画『アブラハム渓谷 完全版』鑑賞。

生涯ベストにあげる人もいる傑作ということは知っていたが、203分、自分にはあまりにも文芸的すぎて、かなりウトウトしてしまった。

それでもハッとするショットはたくさんあった。

自分のコンディションが良い時にもう一度観たいが、この先そんな機会はあるだろうか。

しかし今はエドワード・ヤンもテレンス・マリックもオリヴェイラも映画館でかかってるんだな。

HMV&BOOKS SHIBUYAで「どうせそろそろ死ぬんだし」(香坂鮪)、「擬傷の鳥はつかまらない」(荻堂顕)購入。

夜はU-NEXTで映画『バウンド』鑑賞。ラジオでロバート・ハリスさんがおすすめしていて、そういえば観てなかったなと思い。

タイトな設定、サスペンス演出、流石にデビュー作のお手本のような映画。

監督のウォシャウスキー兄弟は今ではウォシャウスキー姉妹。

ギャング役のジョー・パントリアーノ、久しぶりに見た。ドラマ「ソプラノズ」などで同様の暴力的な役柄の印象が強く、ジャック・ニコルソン的な雰囲気もある。

4月23日(水)

8:15起床。雨。

午後は稽古。今日は団体メンバーのみ。

終わってそのままフレッシュネスバーガーでミーティング。

開幕まで一ヶ月。

借りていた「恋愛の哲学」(戸谷洋志)読了。戸谷さんは一読者として最近信頼している哲学者(年下)。プラトンをちゃんと読みたいと思った。

ドラマ「リハーサル」Season2開始。

コメディアンのネイサン・フィールダーが、タイトル通りに「リハーサル」を行う様を描くモキュメンタリー……ということでいいのか?

邦題は「ネイサンのやりすぎ予行演習」。

今回は……と自分で要約しようとしただけで混乱したので、U-NEXTの番組説明をコピペすると、

飛行機事故に興味を引かれたネイサンは、事故原因は主に機長と副操縦士の意思疎通にあると考える。空港ターミナルのセットに俳優陣を投入し、専門家の助けを借りて事故の状況を再現。人命を救うべく、壮大なスケールで入念なリハーサルを繰り返すが…。

とのこと。どうやってこんな企画を通すんだ。

今現在、最も狂気と紙一重のクリエイター。

トランプのアメリカがどんなにおかしなことになっても、ネイサン・フィールダーをこのポジションにい続けさせる限り、アメリカのショービジネスの層の厚さもHBOの底力も変わらないと思う。

凄い。

4月24日(木)

8:00起床。くもり。

終日、作業や掃除などあれやこれや。

4月25日(金) 

9:30起床。くもり。

3月4月は花粉対策で部屋干ししてきた洗濯物を、久しぶりに外に干した。

今日は尼崎の福知山線脱線事故から20年。改めて死者107名という事実に慄く。

劇場に行けなかったムシラセ「なんかの味」を配信で鑑賞。

橘花梨さんご出演、ほぼ出ずっぱり。

東京新聞の朝刊で楽しみに読んでいた連載小説「最後の一色」が終わった。

もう少し続くかと思ったので読み終わった直後はこれが最終話と気付かなかった。

一色五郎と細川忠興の物語。

有名なのだろうけど自分は全く知らなかったので、普通にどういう展開になるのかハラハラしながら読んだ。

(Wikiを見たら一色五郎=義定は架空の人物説もあるとか。)

まだまだ歴史好きとは言えないな。

「謎の香りはパン屋から」(土屋うさぎ)、「どうせそろそろ死ぬんだし」(香坂鮪)読了。

それぞれ去年の「このミステリーがすごい!」大賞と文庫グランプリ受賞作。

「謎の香り〜」はタイトル通りパン屋を舞台にした、人が死なない日常ミステリの短編集。爽やかな作風で好感度が高いが、これが既に20万部のヒットとは。タイトルと表紙も良かったのかな。

「どうせそろそろ〜」は流れるような語り口が面白かったが、メインとなる叙述トリックの一つが、某有名作と同じなのが気にはなった。

Netflixで配信が始まった映画『ハボック』鑑賞。

今、アクションというか容赦ない暴力描写に一番美学を感じる監督はギャレス・エヴァンス。

特に凄かったドラマシリーズ「ギャング・オブ・ロンドン」Season1ほどの域には達してなかったが、充分に楽しんだ。

4月26日(土)

9:00起床。晴れ曇り。

夕方に突然の雨。

夜は稽古。少しずつ固めていく。

人によっては今日からゴールデンウィークでしょうか。

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