2024/1/28-2/3
1月28日(日)
9:00起床。地震で目が覚める。
図書館に行ったり、紀伊國屋書店で資料漫画を買ったり、無印でルームウェアを買ったり。
ベローチェで先週分のこの日記を書いてたら夕方。
翌日のプレ稽古の準備など。
1月29日(月)
9:30起床。晴れ。
午後は今年演出させて貰う舞台のオーディション。
活動範囲が違う普段あまり会わない俳優さんたちと知り合うのが新鮮。
移動中に芦原妃名子さんの訃報を知る。何か言える立場ではないが、漫画「セクシー田中さん」は素晴らしい作品だった。
映像業界の末端にいる人間として考えることは多々あるが、どうして最悪の結末になってしまったのか。
今後の為にも、個人攻撃ではない、会社単位での調査検証は必要だと思う。
夜は某演劇プロジェクトのプレ稽古。
終わって店に移動し、Pも交えて炒飯を食べながら色々話せたことで、お互い変な遠慮もせずに進めていけそうで良かった。
Netflixで映画『フレンチ・イグジット ~さよならは言わずに』鑑賞。
なんとも不思議な感触で、人に薦めるのが難しい作品。だが自分は好きだった。
いかにも浮世離れしたアメリカの中年セレブ女性が、夫の遺産を使い果たす。
破産したのに「こうなる前に死ぬはずだった」とか言ってどこか他人事。
働いた経験も働く気も無さそうな彼女は、友人?親戚?が所有するアパートメントに住む為、パリに移住する。
一人息子と猫を連れて行くのだが、この息子との関係が独特。
息子はなぜか、この我儘で生活力ゼロの母親に従順。
母に同行する為、婚約していた彼女も置いていく。彼女は当然理解できない。
仲は良さそうだが、といって母子密着という感じでもない。
パリでも母の生活態度は変わらない。
その内、母子の過去や夫の自死の経緯が明らかになってくる。どうやら母は長い間、幼い息子をネグレクトのような形で学校に追いやっていたらしい。そして夫の死をきっかけに?、突然十代の息子を迎えに来た。それもまたどこか気まぐれに見える。
家庭事情はシリアスにも思えるが、主役のミシェル・ファイファーがとにかくお洒落で上品でプライドが高いのにとぼけていて、息子が恨む感じになれないのも説得力がある。
ミシェル・ファイファーでなければ成立しない役。
最近このポジションはケイト・ブランシェットが演じることも多いが、ミシェル・ファイファーのセレブ感やスター性とある種の俗っぽさが絶妙にマッチしていた。
現在65歳。やはりいい女優さんだなと思う。本作でゴールデングローブ賞にノミネートされたらしい。納得。
厭世的な上流階級の話は好きだな。
台詞も良かった。例えば、
「そうよ。私の人生は陳腐なものに満ちている
陳腐って何だかわかる?
あまりに素敵でワクワクする物語が何度も語られすぎて古くなること
でもその物語を実際に生きる人は少ない」
字幕で「陳腐」となっているが、台詞は「clichés」だった。
1月30日(火)
8:30起床。晴れ。
先輩と恵比寿で飲む。某案件について。
1月31日(水)
10:00起床。晴れ。
長らく積読だった手嶋龍一「外交敗戦」を資料として読了。
湾岸戦争時の日米政府の対応や日本人人質事件について。
省益を優先するので国として一枚岩になれないことなど、長く続く日本の問題を知る。
関連して読みたい本のリストがどんどん増えていく。
2月1日(木)
9:00起床。晴れ。昨日に続いて温かい。
新宿ピカデリーで映画『哀れなるものたち』鑑賞。
面白く観たが、自分の感想よりは、どう論じられているかの方に気が向いてしまい、帰り道で何人かの批評を読む。フェミニズムの文脈でも評価が分かれているのが興味深い。
俳優としてプロデューサーとしてエマ・ストーンを尊敬。
U-NEXTで映画『アリスの恋』鑑賞。1974年製作、初めて日本公開されたスコセッシ作品らしい。
スコセッシがこんな小さな人間ドラマを撮っていたのは知らなかった。
12歳頃のジョディ・フォスターが出てくるが、話し方も体の使い方も少年のようだった。
この時期のアメリカ映画は、人物たちのテンションやノリがわからず、いまいち入り込めないことが多い。
2月2日(金)
9:30起床。寒い。
思い立ってテルマー湯。マッサージも一時間。
資料として青木理「安倍三代」の安倍晋三編を読む。
安倍晋三という人物は、政治や歴史の世界でよりも、文学の世界でこそ扱われるべき人物という感。
若い時代を知る人たちほぼ全員からの「目立たないけどいい奴」という評。
実際、友達だったら「いい奴」だったんだろうなと思わされる。
若き日に思想性は感じられず、空虚とも言えるが、そういう人物がリーダーとして求められ、後に日本の安全保障を大きく変えた、という事実をどう考えるのか。
夜はポレポレ東中野で話題の映画『王国(あるいはその家について)』鑑賞。
撮影は七年前だったらしい。
最初、どういうルールなのか掴むのに時間がかかったが、劇映画の脚本を三人の俳優が繰り返す読むリハーサルの過程を映していることがわかってくる。
そのリハーサルの順番も時系列ではなく、同じ場面も何度も繰り返される。それが150分続くのだが、長いとはさほど感じなかった。
ただどう受け止めていいかもわからないまま終了。
アフタートークがあり、監督は「俳優が本番に向けて変化していく過程を撮りたかった」ということを仰っていて、俳優さんたちはいまだに「本番の演技ではなくリハーサルの演技を公開され評価されること」への戸惑いも持っているようだった。
(映画における)演技とは何かという究極の問いを、問いのまま形にしたような不思議な作品。
アマプラでドラマ「Mr. & Mrs. スミス」Season1がスタート。まずは1話を見る。
2005年の同タイトル映画のリブートだが、夫婦ともにスパイという設定以外はほぼ別物。
クリエイターがドラマ「アトランタ」チームなのでムードもテンションも全く違う。
でもしっかり面白くて流石。
フィービー・ウォーラー=ブリッジが途中で降板したプロジェクト。たしかにドラマ「キリング・イヴ」を作ったフィービーにはぴったりの企画だと思うが、「アトランタ」チームと合わなかったのもわかる気がする。
ドラマの評判と同時に、「オリジナル映画はいまいちだった」的な意見も主流になっているようだが、自分は映画も好きだった。
公開当時に観た時は「前半はめちゃ面白いのに後半失速した」と感じたが、数年ぶりに再見すると全編通して面白かった。殺し合いが夫婦関係の比喩になっている脚本が見事。
そして主演のブラピとアンジェリーナ・ジョリーの魅力が絶頂で、二人とも世界中の色気を集めましたくらいのセクシーさ。そりゃこの二人が共演したら不倫しちゃうわという感じだし、セックスレスという設定だけは説得力が無かった印象。
同じアマプラでドラマ「エクスパッツ」も最新話が配信されていたので見る。
ふと気づいたが、ニコール・キッドマンの近年のプロデューサー&俳優としてのフル稼働も凄いのではないか。
2月3日(土)
9:00起床。晴れ。
図書館で借りた「格差の起源」を読み進める。楠木建さんが推薦していて知った。
人類史への大きな問いに巨視的に答えていく論の展開が面白い。
(外国のノンフィクションは、一つの結論に到達するまでに同じような文章の繰り返しが多く、長いとは感じるが。)
いくつかメモ。太字は本では傍点。
世界の文化がこれほど多様なのは、それぞれの社会が独自の生態的地位や歴史的状況に適応した結果だ。したがってこの過程は、地域間で規範の優劣を生むことはなかった。それにもかかわらず、文化人類学という分野の始祖であるフランツ・ボアズが主張しているように、ほとんどの文化に共通する唯一の特徴は、自分たちの規範こそが遍く妥当であるという間違った、時に有害ですらある確信だ。このように思い込む傾向は、多くの社会で人種差別という文化的特性が現れる一因となったかもしれない。自分たち以外の人々や文化を劣ったものとして、あるいは人間以下のものとして描く手法は、しばしば征服者や宗主国によって、搾取や奴隷制度やジェノサイドを道徳的に正当化するために使われるとともに、植民地化する側とされる側とのあいだに巨大な格差を生む要因になった。
驚くまでもないが、根強く残る規範の多くは、それを遵守する人々の長期的な繁栄につながるものだ。たとえば、地理的な特性のせいで棚田や灌漑施設などの公共の農業インフラを築く必要があった地域では、人々がより幅広く協力しあう傾向が強まった。植え付けという投資をすればかなりの期間にわたって収穫の恩恵を享受できる農業共同体では、未来志向性の強い行動が取り入れられるようになった。気候が不安定なので危険を共有する必要がある地域では、見ず知らずの人を信頼しやすい性向が生まれた。こうした特性は、さまざまな時代にさまざまな場所で現れたが、社会全体に利益をもたらしたので、どれも長続きし、広まった。
だがその後、世界のある地域で劇的な転換が起こり、成長を促進するこうした特性が一気に活性化され、「成長の文化」が生まれることになった。
今から振り返ると、中国の地理上の連結性がもたらした影響が明らかになる。この連結性が政治の中央集権化につながり、それが中世には有利に働き、中国は経済でも技術でも先行できた。しかし、産業革命の直前には逆にそれが仇となった。産業革命という技術の面でのパラダイムシフトを促進し、活用するためには、競争や文化の流動性のほうが役立つようになっていたのだ。
慈悲深ろうと専制的であろうと、彼らが存在するうえで必須なのは、収税をする能力だった。この能力を欠いた統治者は、数千人を超える規模の政治組織を打ち立てるのに苦労をしたことだろう。社会が発展する過程で、農業主体の段階では、税は主に作物によって支払われた。したがって収税の実行可能性と効率は、その地域で主にとれる作物の種類や、輸送と貯蔵の容易さや、収量を評価する能力に左右された。発展した古代文明では、農業は主に、キャッサバやサツマイモやヤムといった塊根や地下茎ではなく、穀物を土台にしていた。これは偶然ではない。穀物のほうが計量も輸送も貯蔵もはるかに楽で、したがって収税も簡単だったからだ。はたして、土壌が穀物の収穫に適した地域では複雑な階層制社会が生まれやすいことを、歴史的な証拠が示している。一方、塊根や地下茎を主に収穫する地域では、牧畜民や遊牧民の社会に存在していたのと似通った、もっと単純な社会組織が多く見られた。そうした地域の支配者は収税に苦労し、農業革命をわりあい早く経験した地域でさえ、都市国家や国や帝国などの、より階層的な社会には発展しなかった。
夕方、菊原結里さんのイベントにご招待いただき、初めて中野富士見町のニュー・サンナイへ。面白い空間だった。歌三曲+トーク。歌はもっと多くても良かったのでは。
ドラマ「Mr. & Mrs. スミス」を見進める。
すでに登録済みの方は こちら