2025/2/2-2/8

第70号
上野友之 2025.02.09
誰でも

2月2日(日)

7:30起床。雨。かなり久しぶりの雨ではなかろうか。

近所の個人経営のお寿司屋さんが閉店していた。

一時期はよくお邪魔したが、最近は節約のため足が遠のいていた。

ので、言う権利はないのだが残念。

最近、YouTubeを見て料理するようになり、今日はポテサラと生姜焼き。

調理器具ももう少し揃えたいな。

「身代りの女」(シャロン・ボルトン/川副智子 訳)読了。

改めて凄かった。これは読んで良かった。

サスペンスとして全く先が読めず、最後はある種のどんでん返しまであり。

THE PACT(盟約)という原題にも凄みを感じる。

そして著者の謝辞を読んで、この惨劇の舞台を息子が実際に通った学校をモデルにして書いたと知る。そんな著者が一番怖いと思った。

あと、Oxbridge(=オックスフォードとケンブリッジの併称)という言葉を初めて知った。日本なら早慶みたいなことか。(レベルとしては東大と京大だろうけど。)

夜はさよなら人生リモートミーティング。

今後の発表に向け、公演情報を詰めていく。

なかなか良い感じに進んだのでは。

思い立ってこんなサービスも始めてみました。

2月3日(月)

6:00起床。くもり。寒い。今週は寒いという予報。

今日も図書館で資料本読みなど。

配信でONEOR8「誕生の日」鑑賞。

見事な舞台セットと、それを回転させる場転が毎度お洒落。

夜はさよなら人生、ビジュアル面のリモートミーティング。

また22時くらいに眠くなってしまった。

というか6時起きだから別にいいのか。

2月4日(火)

8:00起床。晴れ。

確定申告作業。

会社員時代の習慣で経費は日頃からこまめに入力してるし、去年は売上も少なかった(泣)のですぐ済むかと思ったが、なんだかんだ数時間。

あとは主に資料読み。

2月5日(水)

5:30起床。目覚めてしまったのでそのまま起きる。晴れ。寒い日が続く。最強寒波が居座っているらしい。

「きょうだいリスク 無職の弟、非婚の姉の将来は誰がみる?」(平山 亮 / 古川 雅子)読了。

資料として図書館で借り必要な部分だけ読むつもりが、結局通読した。思った以上に考えさせられることの多い新書。

自分は一人っ子だが、「経済的に不甲斐ない家族」という点では身ににつまされてしまう。

現状は好き勝手に生きてきた自分のせい、という意識もある。

ただ本書に通底した主張は「家族の問題は国(の社会保障制度)の問題」というもの。

日本の家族感や社会設計のある種の歪み、またそれは古来から続くものではなく戦後の一時期に限定されたものであること、など知らない事実も多々あった。

2016年刊なので、約10年間で社会の制度も変わったと思いたいが、提示されている問題は今も続いている気もする。

一人っ子だからこそよく描いてきた「兄弟姉妹」という関係性。一方で憧れつつ、一方で「言語化しづらいわだかまりをずっと抱えてそうだな」と見えていた、そのわだかまりの一部が、本書を読むことで解き明かされた感もあった。

いつの時代もどんな国、制度でも、最小の社会単位である「家族」が物語の主題であることは常に変わらないのだと思う。

「きょうだいリスク」の実態とメカニズムについて理解したわたしたちが、この「リスク」に立ち向かうために必要なこと。それは、わたしたちが家族を演じているこの「舞台」をつくりかえることです。家族レベル・世帯レベルでしかリスク管理をしてくれないシステムにNOを突きつけ、個人単位の生活保障を可能にするシステムを積極的に支持していくことです。 
 個人単位のシステムを支持するとは、人と人が切り離され、バラバラになっていく社会を目指す、という意味ではありません。個人単位のシステムとは、どのような個人であるかにかかわらず(例えば、家族という特定の関係をもっていようといまいと)、それぞれの生活状況と抱えるリスクに応じて必要な処遇と保障を受けられるシステム、ということ。その意味で、あらゆる個人が「のけ者」にされることのない(それを許さない)社会を支持することになるからです。逆に、「性別分業的な片稼ぎ世帯を築いていない/築けない」というだけで貧困に陥らされるような、そんな偏狭な「社会保障」の制度のほうが、人を選別して排除するという意味では、よほど「社会を分断している(=バラバラにしている)」と言えるのではないでしょうか。 
 実際、「家族が家族にしか依存できない」家族主義の社会のなかで、「家族が家族を支える」を実践している(せざるをえない)きょうだいたちが、【中略】きょうだいという関係を呪縛のように感じ、きょうだいへの不満がときに軋轢となって表面化していました。そこでは「きょうだいを大事に」どころか、逆に「きょうだい嫌悪」とでも言うべき事態が生じていたのです。
「きょうだいリスク 無職の弟、非婚の姉の将来は誰がみる?」(平山 亮 / 古川 雅子)

「頬に哀しみを刻め」(S・A・コスビー /加賀山卓朗 訳)読了。

このミステリーがすごい! 2024年版の第1位(海外編)の犯罪小説。

ゲイ夫婦である息子二人を殺された父二人が犯人を探し出して復讐する。

シンプルなプロットだけど、読ませる。

それぞれ過去に裏社会で生きてきた父二人のキャラクターが抜群だし、白人と黒人なので常に緊張感があるし、息子の生前はゲイであることを受け入れられなかった点は二人とも同じでもある。

悪役が本当に嫌な奴で、復讐の場面ではスカッとしてしまった。

2月6日(木)

4:30!に目が覚めた。晴れ。東京もマイナスになったみたいで早朝は室内でもかなり寒い。

寒いので午前中からテルマー湯。

久しぶりにマッサージもして貰う。

あとは読書。資料読みという体で仕事してるつもり。

中井久夫集1「働く患者」読み始めた。

帰省時に父に教えて貰って知った中井久夫。

冒頭に収録された「現代社会に生きること」だけでも全ページ付箋をつけたくなる。

1964年、中井久夫がまだ精神科医になる前、知人に頼まれ筆名で書いたもの。

60年前の文章が、2025年の今にも当てはまるようで驚く。

思考をそのまま語り書きしているような、理想的な文章。

圧倒的な教養に裏打ちされていることが伝わってくるが、難しい言葉は使わない。

テレビから氾濫するさまざまの人間の姿は、生ま生ましく茶の間にまで侵入しつつ、大量の「体験に似たもの」で、ひとの体験の、体験としてあるべき重みを曖昧にしがちである。一日四、五時間テレビに見入っているひとは今日決して少なくないが、体験は日々に生き、苦しみながら成長してゆく人間が自分でするものであるという、人類が古くから疑うこともしなかった基本的な立場が、はたして持ちこたえつづけられるであろうか。 
 おそらく、「疎外」のいちばん奥深く、目に見えない形は、「基本的な体験からの疎外」ではなかろうか。われわれは、この否定的な潮の流れに対して何を対抗させながら、つまらないものに足をとられず、また生きがいを求める人間の底力を放棄せずに、自分の人生を組織してゆくべきだろうか。それは現代の人間に課せられた最大の課題であり、社会の基本的な未来像を含む、「人間的なものの一切」は、この課題と無縁ではあり得ないだろう。
「働く患者 中井久夫集1 1964-1983」~「現代社会に生きること」

※太字は傍点

夜はピカデリーで『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』鑑賞。良かった。

いつどんな役をやっても上品さがこぼれでてしまうジュリアン・ムーアと、どんな役をやっても人間を超越した宇宙人味、幽霊味があるティルダ・スウィントン。

この二人をキャスティングした時点で勝ってる。

アルモドバルの中でもとにかくわかりやすくシンプル、だからこそ洗練されきった語り口。

初の英語長編で舞台もアメリカだが、ルック、風景、衣装、インテリア、果てはスマホの画面まで完全にアルモドバルの色彩。

ニューヨークの街並みすらヨーロッパのように撮っていたな。

2月7日(金)

6:30起床。晴れ。

3日連続で冬日だったらしい。

引き続き中井久夫集より。これも1964年に書かれた文章。

 しかし、社会が個人を超絶した存在だとしても、完全にその中に自己を埋没させることはできない。さまざまの個人以前のものの上に成り立ちながらも、人間が人間であるぎりぎりのものは、個人の自我の主体性に求めるより他はなく、具体的には、社会はそのような個人の集まり以外の何ものでもない。人間と社会との関係はこのような、互いに矛盾した緊張関係である。 
 ことに資本主義社会の成立以来、社会の自己運動は、地すべり的に烈しくなり、人間と自然、人間と社会との関係が激変をこうむり、関係の変化自身が新しい矛盾、新しい緊張を作り出している。しかも、顧れば、そのように作り出された矛盾や緊張が、社会の自己運動の原動力となっているのである。そうして、資本主義の産み出した技術社会は、オートメーションの到来によって新しい段階に入り、あるいはSF小説(アイザック・アシモフなど)のいうように、社会は、「人間とロボットから成る」と定義されねばならない事態が急速に実現するかも知れない。
「働く患者 中井久夫集1 1964-1983」~「現代における生きがい」

今日も図書館で資料本。

新しく買った包丁が届いた。

包丁を買ったのは一人暮らし歴25年で初めてではなかろうか。

「たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説」(辻真先)読了。

書いた時点で80代後半、現在では90代になっても現役バリバリ。

衰えぬ創作欲と記憶力とインプット、何よりその面白さとクオリティ。

辻さんこそ奇跡のような人だ。

戦中戦後を経験し、当時の理不尽にいまだに怒りを覚え、今でもそれをメッセージ性を取り込んだエンターテインメントとして昇華させている。

凄い。

自分の耳が信じられなかった。白人のアジア搾取の歴史を語った舌の根も乾かないのに、進駐軍とのつきあいをステータスにする古武士気取りの男。 
 その矛盾の塊が【中略】面前で怒号した。
「たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説」(辻真先)

「ランドマン」5話。まだまだ家族パートをじっくりと。

この作品、サスペンスというよりは家族ドラマに重きをおいてるのかな。

同じシェリダンの、例えば「イエローストーン」なんかよりは軽め。

アメリカの映画やドラマでよく出てくる、配達員が新聞を庭に投げ入れる場面。あれ日本では考えられないよな。

2月8日(土)

6:30起床。晴れ。今日も寒い。

寒かったけど天気は良かったので久しぶりに四谷の休憩所へ行って作業。

有吉佐和子「青い壺」読了。50年前の本が今ベストセラーになっているらしい。

タイトル通り、青い壺が人の手から手へと移り渡っていく。その十年を視点人物を替えて描く短編群像劇。

人と人との距離感、家族関係、礼儀作法など、今から見れば古臭く封建的にも思えるし、「人間」への根本的な信頼や愛情は、当時の方が存在していた気もする。

そして昭和50年頃は、戦争の傷跡が社会にも家族にもまだまだ共通の記憶として残っていた。

娘が盲目になった母を引き取って同居する第五話は、読み終わってなんかスッとして、何かこう、知らなかったこの世の手触りみたいなものを感じた。独特の読後感。

アマプラで映画『オーダー』。

2024年製作のカナダ映画。でも舞台は80年代のアメリカ、FBI捜査官が白人至上主義のヘイトテロ集団を追う話。

実話がベースらしい。

撮影、俳優、演出は抜群。主演のジュード・ロウ、渋いおじさんになったな。

ストーリーは、驚きとか意外な展開とかはなく、緊張感をもって淡々と進む。

このテロ集団が残した本が、その後の様々なテロ事件でバイブルのように参照されているらしい。

ヘイト問題は日本でも根深いとはいえ、アメリカの人種差別のシリアスさ、危機感は、比べものにならないほど切羽詰まっているんだろうな。


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