癌という病気のイメージと実体験
いまだに受け入れ難いが、父の癌と死別を経験した者として書き残しておきたい。
「癌は若いほど進行が速い/老齢であれば進行は緩やかになる病気」と思っていた。
また、
「癌は突然死と違い、最期までの時間を認識して過ごすことが出来る(良い)病気」といった言説を何度か見聞きしてきた。
(真逆の意味で「ピンピンコロリ」という言葉もあるし、何が良いか悪いかの価値判断はそれぞれではある。)
癌を患った著名人が亡くなる前日まで仕事する姿も見てきたし、
或いは手元にある村上春樹さんの文庫の一節。
父親は平成20年(2008年)8月に、方々に転移する癌と、重度の糖尿病のために九十歳にして、京都の西陣の病院で息を引き取った。数年にわたる闘病生活のために身体はかなり衰弱していたが、意識と記憶と言葉だけは最後までしっかりしていた。
とにかく自分は、癌を患った78歳の父とある程度の「別れの時間」を共有できるイメージを持っていた。
しかし想定とは違う経過を辿ってしまった。
4月には札幌から東京まで公演を観に来てくれていた父が、以降体調を崩し、
6月にステージ4の食道癌と告知され、当初は年単位の余命が話に出ていたのに、
9月になると抗がん剤が効かず緩和ケアを提案され、
10月の逝去まで結局は4ヶ月ももたなかった。
それぞれの時点が、ショックの連続ではあった。
それでも緩和ケアに移行し、抗がん剤の副作用による衰弱からの回復を願い、僅かな希望も持ちながら、残りの時間を少しでも共有したいと思った。
9月13日の公演終了後そのまま最終のフライトで札幌に帰り、
翌日から毎日見舞いに行き、9月18日の緩和ケアへの転院にも付き添った。
自分は9月25日には東京に戻る予定だった。
しかし9月23日の朝、病院から電話があり駆けつけると、父の容態は明らかに急変していた。
眼の焦点は合わず小刻みに震え会話も意思の疎通もできない。
素人目にも、脳に何らかのトラブル(医師用語では「イベント」)が起きたのは明らかだった。
不運も重なった。
・連休中で「その日呼ばれて来ました僕は何も知りません」といった態度の当直医師しかいなかった(最悪な奴だった)
・そもそもこの病院には緩和専門の常駐医がいなかった(おかしい)
・脳外科はなくMRIも設置していない病院だったので検査ができなかった(なので脳梗塞なのか脳転移なのか正式な病名はわからない)
・既に緩和ケアに移行し本人が延命治療は拒否していた為、積極的治療は行わないという方針で同意していた(とはいえトラブルがあれば対処してくれると思っていた)
今は冷静に整理できるし、緩和ケアと言われて転院したのに緩和専門の常駐医がいなかったことには怒りしかない。
しかしその瞬間は、医療素人の患者家族はただ動揺しショックで呆然とするばかりだった。
帰京前に父といわゆる「最期の会話の時間」を持てるものだと思っていたし、伝えたいことや感謝の気持ちをまとめていた。
具体的には坂本龍一さんのドキュメンタリーで、亡くなる直前にお子様一人一人とお話される姿が印象に残っていた。
一言でもいいから、言葉も貰いたかった。
しかしその機会が唐突に永遠に失われたのか、という衝撃。
この時ばかりは、病気ではなく事件や事故に遭ったような感覚だった。
さて、大事なことなのでこれだけでも覚えて帰って頂きたい。
癌という病気は血栓が出来やすく、癌そのものの進行とは別に、いつ脳の血管が詰まるかわからない
たしかに告知の時点で、補足的にそうした説明も受けていた。
脳だけでなく心臓の血管が詰まるかもしれないし、とにかくいつでも「急変」はあり得る。余命とは、そうした急変が無ければ、という前提での数字でしかない。
しかし脳の異常への準備も覚悟も持てていなかったし、具体的にどういう症状なのか想像も出来ていなかった。
前夜まで普通に会話をしていたのに、翌朝には急変して言葉を発することも動くことも出来ず、全身麻痺のような状態になっていた。
認知機能が残っているかもわからず、時折苦しそうに口を動してもパクパクとしかできない。
切なく悔しく、本人の無念を思うと胸が張り裂けそうだった。
念の為、「会話や意思疎通が出来なくなったらお終いだ」といった優生思想/健常者至上主義的な主張をするつもりは全くない。寧ろ真逆の考えに至る経験をしたがそれは後述する。
この日は母が病院に泊まり、自分は実家に帰宅した。
呆然とした時間が過ぎた後の深夜、
「もう父とは永遠に話せないかもしれない」と認識した時の恐怖と絶望。
急変する前日、9月22日の夜、思い返せば父はぼんやりとし、認知機能も低下しているように見えた。
でも会話は出来ていたし、自分はそれが酷い下痢による衰弱のせいと思ってしまい、早く休むように言って面会終了時間である20時に病室を出てしまった。
自分が帰らずに病院に泊まり込めば何かが違ったのだろうか。
父が暗い病室で一人、どんな不安と恐怖の時間を過ごしたかと想像すると涙が止まらなかった。
自分が抱えていたことを無理やり整理すると、
①医師の対応/病院の体制への不信と怒り(看護師だけは皆さん涙が出るほど素晴らしかった)
②父を奪っていく癌や運命への憎しみ
③父がいなくなることの恐怖と寂しさ、遺される不安
④自分の行動が間違っていたかもしれない痛恨
⑤話すべきことを話せなかった後悔
という感じだが、①〜④は医療の素人が前持ってかまえておくことは難しい。
病院や医師との相性も事前には把握できない。何かあった時にどんな対応をしてくれるか、病院にどんな設備があるのかないのか何が必要なのか、行ってみないとわからない。
どの病院にするかの選択ミスだったかも、と今は思っている。
ただ父は過去にも病気をした際、その度に良い病院/医師と巡り合ってきて、恐らく日本の医療全般を根本的には信頼していた。自分もそうだ。
だから、疑問や不安があっても信じ続けようとした。本人もまさかこんな急展開になるとも思っていなかったはずだ。
全ては結果論になる。
坂本龍一さんの本に以下の記載がある。
当然、転移自体がショックなことだけど、全米でも一、二を争うガン・センターが見落としていたのか、あるいはどういう理由でか、ぼくに黙っていたことに対して、一気に不信感が芽生えました。
仮にエビデンスを示したとしても、患者に対しての言い方ってもんがあるだろう、と正直頭にきてしまいました。こちらに希望を与えないような悲観的な断定をされ、ショックで落ち込んでしまった。有名な先生だと聞きましたが、ぼくとは相性が悪いのかもしれないと思いました。
坂本さんほどの著名人でも、医師との圧倒的な情報の非対称性の壁にぶつかったのか、それほど医療との向き合いは難しいのかと慄く。
しかし⑤だけは、言うなれば癌に限らず普段から意識しておけることではある。
にも関わらず、癌という病気のイメージにより、「最期の会話」は臨終直前まで引き延ばされがちである。というか自分がそうだった。
だって「最期だから」という前提で話をすること自体がタブーというか、僅かな希望を捨てる気がするから。
しかしはい、大事なことなのでもう一度。
癌という病気は血栓が出来やすく、癌そのものの進行とは別に、いつ脳の血管が詰まるかわからない
なのでいつ会話が出来なくなるかはわからない
「急変」がいつ、どこで、具体的にどういう症状で起きるかもわかりません
当初、父の病気や死別について公にするつもりは無かった。
しかし、せめていつかこの文章が、どなたかの何らかのお役に立つことがあれば、ほんの少しだけ救われる気持ちで、書き残しておきたい。
ご清聴ありがとうございました。
ここまでが主に急変(脳トラブル)直後の絶望について書いた文章だ。
今まで安易にトラウマという言葉は使わないようにしてきたが、あのままでは強烈な後悔と恐怖体験としていつまでもフラッシュバックしただろう実感がある。
予定を変更し、日帰りで札幌東京を行き来などしながら、母と交代で病室での泊まり込みが始まった。
そして一週間後の9月30日、父は奇跡的に意識を取り戻した。
「大丈夫?」と声をかけると、突然かすかな声で「大丈夫、びっくりした」と喋り、笑顔で目を合わせてくれた。
「もう意思疎通はできない可能性が高い」と言われていたので、こちらの方がびっくりして腰を抜かした。
人生で一番驚いた瞬間かもしれない。
意識不明の間、閉じ込め症候群のように恐怖状態なのでは……と恐れていたので、笑ってくれたことで「少なくともずっと苦しかったわけでもなさそうだ」と知りホッとした。
その後も、声帯か舌が弱っているのか声はほとんど出ないが、微かに言葉を発したり、指でOKサインを出したりは出来た。
口を懸命に動かしているのになかなか音にならずもどかしそうで辛くもあったが、それでも聴き取れる単語もあった。
父の口にあんなに顔を近づけ、言葉を汲み取ろうと必死に耳をすませたのも初めてだ。
或いは言葉にならずとも、時折り目を見て微笑んでくれる時間。
手を握り返してくれる時間。
ちょっと経験したことが無い時間感覚だった。
自分に子供はいないが、子育ての中で親が感じる無私の気持ちはこういうものなのかも、と思ったりした。
俯瞰すれば、人類が永遠に繰り返す生老病死の循環の中にいるような。
はたから見れば44歳のおじさんが78歳のおじいさんの手を握っている姿なのだが。
(今思えばここで安堵せず、舌を使った発声トレーニングなど試せば良かった。何のために演劇をやっているんだ。)
父はもう、口から物を食べることも飲むことも、動くことも、排泄処理もできなかった。
でもあの時間があると無いとでは、自分と母にとって、父との別れは全く別の体験になったはずだ。
あの、恩寵とすら呼べるかもしれない時間。
そして78歳という享年。
客観的には「平均寿命に少し届かなかったけどまあ」という数字かもしれない。
自分も若い時は、「78歳でも79歳でも正直違わないのでは」などと思っていた気がする。
しかし三年前に現役を引退した父は、元々は学者タイプだったこともあり、
趣味と呼ぶにはあまりに熱心なドイツ語の勉強、友人との定期的な読書会、頻繁な図書館通いに調べ物など、本当にやりたかったことに、ようやく、存分に時間を費やしてきた。
原文の書き写しやコピーで埋まった何冊もの手書きノート、亡くなる直前に届いた新しい分厚い辞書、膨大な蔵書群。
それらは、生産性とか承認とか効率とかいった言葉がちゃんちゃら無意味に響くような、ただただ豊かな時間であり、あと一年でも半年でも一ヶ月でも時間が延ばされただけで、どれほど貴重な積み重ねになったかと思う。
と思ったら、たまたま今日読んだ新聞記事で以下の文章を知った。
「年老いているということは、もし人が『始める』ということの真の意味を忘却していなければ、ほんとうに輝かしいことであることを、おそらくきっとこの老思想家は、老境に入ってはじめて根源的に知りえたのであった。彼の挙止はおよそ若さには縁遠かった。その限りでは実際に彼は年齢並みに老いていた。しかしそれは若々しい、いかには始むべきかをわきまえた老い方であった」
深く首肯すると共に、だからこそ、たった4ヶ月で終わりが来たことに、誰よりも本人がどれほど無念だったことか。
そしてある時期以降、それがどんなに丁寧な態度であっても、医師サイドからは「もう諦めましょう」というムードがベースにあった気がして、そのことには重い霧のような悲しみと虚しさと憤りをおぼえる。
だから自分は、そのことについてぼんやりとしか考えてこなかった優生思想、或いは高齢者差別、健常者至上主義のような言説に、明確にNOの意思を持った。
同じく、詳しく調べもせずになんとなく肯定的だった安楽死議論にも、疑問を持つようになった。
ただしこれは、
・ケア労働は、自宅では母が、入院中は全て看護師さんが担ってくれて、自分はただそばにいただけ
・動けなくなってからの期間は1ヶ月
・父は引退した非課税世帯で医療費は安く、尚且つ医療保険のおかげで個室代も含め経済的な不安は無かった
・父との確執などは全く無かった(あったのは、散々援助し応援して貰ったのにこの体たらくでごめん……という後ろめたさだけ)
という、ある面では特権的な環境からの視点ではある。
そもそも父の死を素直に悲しめること自体、恵まれてもいるのだろう。
こうしたテーマに一つの重すぎる実感を得てしまった人間として、これからも考え続けていきたい。
火葬場から骨壷を抱えて自宅に戻り親戚と寿司を食べている時に、村上龍さんの訃報を知った。
平時だったら大変なショックを受けたニュースだ。
でも変に納得してしまったというか、そうか村上龍が死ぬなら父も死ぬよな、などと妙なことを思った。
(あとタイムラインが龍さん一色でみんな村上龍好きすぎ、生きてる時に言おうよ、俺もな。)
家族葬を終え、病院での1ヶ月が嘘のような静かな時間を母と二人で過ごした。
亡くなった後に出てきた父の日記を読み込んだりしている。
自分が産まれる前、まだ30代前半の父がもがき続ける姿や、還暦近い現役時代の父が、日々仕事のことで試行錯誤を繰り返す記述。
読まれたくなかったかもしれないけど、この日記をこんな感慨を持って読むことができるのは今の俺だけだよお父さんなどと思う。
どんどん瘦せ細り衰弱していく中で、それでも必死に生きようとした父の姿を思い出す。
パッとしない自分の人生を投げやりに傍観しがちな息子に、その姿を見せつけてくれたのか。
父78歳、自分44歳。
我ながらナイーブ過ぎる気もする。
身近な「大人」たちが親を見送る姿はもっと冷静だった気もする。
自分ももっとちゃんとした人生で、家庭を持ったりしていれば違うのだろうか。
アルゴリズムのせいで、癌の当事者やご家族、死別に苦しむ人たちのツイートで埋まったタイムライン。
もっと理不尽な目に遭っている方もたくさんいる。
でも比べること自体が失礼だし、辛いものは辛く、哀しみはどこまでも個別固有のものでしかない。
自分でも稚拙な文章だと思うが、「時間の薬」が効いてから振り返ったり、創作に昇華したりする前に(するのかよ)、
直後の心の叫びを残しておくことも自分には必要と思った。
そろそろ日常に戻らなければならない。
でも、父と過ごした最期の時間だけが真実の時間で、日常は浮世の夢のような気もする。
それならそれで良いのかもしれない。
ずっと父のそばにいた母と、
この1ヶ月精神が不安定だった自分にLINEや電話で付き合ってくれた友人知人には、
感謝しかありません。
最期まで心のこもったケアをして下さった(医師ではなく)看護師の皆さん、本当にありがとうございました。
村上龍さんといえば、「人生は、取り返しのつかないことの連続だ」という言葉を座右の銘のように噛み締めてきた。
仕事や人間関係でたくさん後悔を抱えてきたが、全て吹っ飛んでしまった。
死以外のことはいくらでも取り返せる気もしてしまう。
まさかたったの4ヶ月、会話が出来る状態としては3ヶ月で最期が来るとはいまだに納得できないし、
そうとわかっていればああしておけばこうしておけば、と一生抱える後悔ばかりだ。
医師や病院を信用し過ぎなければ良かったか、
強引にでもセカンドオピニオンをすすめれば良かったか、
そもそも抗がん剤を使わない方が長生きしたのでは、
そして9月22日の夜に僕が病院から帰らずずっと付き添っていれば何か違ったのか。
もしも今30秒だけでも父と話すことが出来るなら、或いはあの夜に戻れるなら、なんだってしたい気持ちは永遠に変わらない。
お父さん、ごめんね。
本当にお疲れ様でした。
あなたの息子に産まれたことが僕の一番の幸運です。心からありがとう。
また話そうね。
その時まで、どうか安らかに休んでいて下さい。
それまでしばらくの間、さようなら。
友之


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