2025/9/14-9/20
9月14日(日)
3:00頃に目覚めるがすぐ寝て6:00起床。曇り。
朝イチでモスに行く途中、四谷四丁目の交差点、というか外苑西通りに大量の警官やスタッフがいる。世界陸上か。
松尾君の命日。もう三年。
「いま松尾君がいればなあ」と何度思ったことか。
渋谷のシネマヴェーラで映画『私の殺した男』鑑賞。
1932年のアメリカ映画。
行きたいと思いながら全然行けていなかったルビッチ特集の一本。
恋愛やコメディの印象が強いルビッチの中で珍しい?シリアスドラマ。
Twitterで絶賛されていて楽しみにしており、冒頭から良い映画ということはわかるのだが、
終始ウトウトしてしまい非常にもったいなかった。
作品とは全く関係なく、連日の疲れか早起きか、ランチ直後のせいか。
無念。
ルビッチ特集、あと何本か観れるかな。
しかしこの時点でこんな反戦映画を作っていた国が、この13年後に原爆を落とすとは。
他にも映画観ようかと思ったが、また寝ても嫌なのでやめて、
HMV&BOOKS SHIBUYAで「此の世の果ての殺人」(荒木あかね)、「告白」(町田康)、「サーチライトと誘蛾灯」(櫻田智也)を購入。
どこか入ろうと青山方面へ歩くもどこも混んでいる。
結局、国立競技場の辺りを経由して、渋谷から自宅まで歩いてしまった。
途中、信濃町のバーガーキングで休憩。
気温は下がってきてるが蒸し暑い。
夜も作業したりドラマ見たりするが、
またも22:00頃に寝てしまう。
9月15日(月祝)
7:30起床。曇り。
連絡して作業して読書してドラマ見て。
思う所はあるがここには書けない。
9月16日(火)
6:30起床。曇り。
朝からメールしてシャワー入って家を飛び出し渋谷へ。
シネマヴェーラのルビッチ特集でサイレント映画『ウィンダミア夫人の扇』。
しかし向かう途中から気圧の影響か目がかすみ頭痛もし始める。
そのせいもあり映画は前半ほぼ寝てしまう。
サイレント映画は特に、序盤観てないと何のことやらわからない。
時折り起きる笑い声の意味もわからず。
前回に引き続いてもったいない。
体調を考慮して他の映画も諦めバスで帰宅。
何のために渋谷に行ったんだ。
あとは家で横になったり作業したり読書したり。
夜はどのサブスクで映画やドラマを観ても集中できず、またも22:30頃には寝た。
レッドフォードの訃報。スターがまた一人。
9月17日(水)
3:30頃に目覚め二度寝して7:30起床。晴れ。まだまだ暑い。
目黒へ。
オフライン編集のP立ち会い(という業界用語?だけで済まそう)に、お弁当を買って合流。
予定より早く、午後イチには終了。
今回の仕事を丸っとくれたHプロデューサーと目黒駅まで歩き、サンマルクで諸々話す。
忙しいHさんが各所に電話する合間に。
現場期間はお互いゆっくり話す暇もなかったので、久しぶりに落ち着いて話し色々相談できたのも良かった。
帰宅するも、再びHさんも交えてリモートで脚本改訂打ち合わせ&衣装イメージ打ち合わせ。
更に夜は、さよなら人生リモート打ち合わせ。早く終わるかと思ったけど、なんだかんだ24:00まで。
9月18日(木)
7:00起床。晴れ。雨が降るらしいが朝イチで洗濯。
そしてまだまだ35度予報。蒸し暑い。
午後イチで池袋へ。
カラコレ&本編集をお願いする方へ撮影素材や台本を届け、タリーズで暫し打合せ。
ポスプロ業界のことや別事業のことなど、興味深いことを色々と。
その後は池袋を彷徨い寿司ランチしたりバーガーキングで本を読んだり。
夜は倉田さんを呼び出しておすすめ町中華を案内して貰う。
東池袋にこんなリーズナブルで美味しいザ・町中華があるとは。
知らなかったら絶対入らない。
うちの近所にもこれくらいの価格帯の店があれば良いなあ。
酔っ払って、さよなら人生のキャスティング案が一気に進む。
やはり自分が素直に惹かれる、グッとくる人に頼むことにする。
9月19日(金)
7:45起床。曇り。一気に涼しい。
朝イチのリモート会議は流れたので、そのまま作業。
AMは歯のクリーニング。
前回、歯磨きの全てをダメ出しされたが、その後の歯磨きは悪くなかったようで歯茎の出血も減っているとのこと。
次回も三ヶ月先で大丈夫ですと言われて一安心。
クリーニング自体は全く痛くないが、奥歯の隙間にプラークが溜まっているとのことでひたすらガリガリされる。
午後は目黒へ。オフラインのP立ち合い。6時間ほどかかってピクチャーロック。お疲れ様でした。
帰宅してリモートの脚本打ち合わせ。脚本を書いたのは自分なのだが、今はロケ地の縛りや尺調整の為、直しは監督がしてくれている。その方が大変そうで恐縮。
1:00頃に寝た。
9月20日(土)
6:30起床。曇り。涼しい。
朝はモスで作業。
午後は新宿三丁目で作業。
ひたすら連絡したりエンドクレジット作ったり。
「他なる映画と 1」(濱口竜介)読了。
さすが、ここまで考えて映画を創って(観て)いるのかと。
難しい批評言葉を並べるのではなく、映画の基本中の基本や、当たり前と思われる前提から遡って、数多の鑑賞経験と現場経験からご自身の言葉で実直に思考を重ねていく。
とても刺激的だった。
未見の映画も多く、改めて古典をたくさん観たくなる。
ただ、何であれ役所広司からこれほどの演技が引き出されているということの背景として、「役者の安心をつくりだす」監督と役者との間の信頼関係を想像しないことは、私には難しいのです。
それがどのようなものであったか、想像を伸ばしてみたときに、少なくとも「自分に自由が与えられているという役所広司の確信」がなくしてはこの演技は生まれないように私には思われました。そして、その自由は、テキストという極めて確かな土台なくしてはそもそも持ち得なかったものです。こうした即興的な瞬間を呼び寄せたのは、そもそものダイアローグの素晴らしさであり、今回ほとんど触れなかった萩原聖人はフレーム内にいながら、やはりほとんど演出家のようであったと、話題を移す前に言い添えたいと思います。
私が確信しているのは、最も素晴らしい演技には必ず即興的な瞬間が含まれる、ということ。そして、そこには捉えられてしまった偶然があるということです。ここまで、実にしつこく、脚本の細部を情況証拠として勝手な推理を繰り広げてきました。
【中略】
その日その時その場所で、たまたまそうなった。テキストが演者のポテンシャルを開いてしまった。もしくは、演者がテキストのポテンシャルを。偶然。それをカメラやマイクが捉えた。だからこそそれを「かけがえのない瞬間」として我々は見ている、ということです。偶然というのは英語では「co-incidence」=同時に起こるできごととのことです。
【中略】
ここでは演出家の与えるテキストと俳優の演技が、理想的に作用し合う。演出と演技が、お互いにとっての原因であり結果となる。それが「出会い」ということです。それはテキストに対して起こったことでもあるけれど、まったく同時に俳優のからだに対して起こったことでもある。つまりそこで起きていることは、基本的には互いに弱め合うはずのフィクション(テキスト)とドキュメンタリー(現実のからだ)の、ほとんどあり得ないような一致・両立なのです。だからこそそれは、現実がフィクションを破壊せんとしてもたらす数多のハプニングやノイズとは異なる、「正確な」(と呼びたくなる)偶然として感じられるのです。
【中略】
決まったテキストがあることは、偶然が起きることを決して邪魔しません。役所広司が数々の偶然を摑み取っていったように、テキストという準備があることがむしろ、然るべき偶然(の連鎖)の条件となります。テキストがあるから同じことを繰り返せる、同じことを繰り返せる中で、役者の安心と集中状態が同時に作られていく。
それでも演出という行為の中に、そもそも暴力の萌芽があるのです。それは他者に「NO」と言うことです。私が演出の「核心」と呼んだものはこの「NO」のことです。そして、その背景には世界や、人間のポテンシャルに対する信頼があると言ってもいい。未だ現れてはいないがそこに「あるはずだ」と信じること。まとめてここでは「信」と言いましょう。この未だ現れないものへの「信」なくして演出はなしえず、「信」を現実とするまでのNO(NG)を伴わない演出もあり得ないでしょう。ただし、その否定はまだ誰の眼にも明らかではない未然の「YES(OK)」を基準として為されるのです。しかも、先ほど説明したような撮影現場の権力構造のなかで、監督は必ずしも判断基準の言語化を要求されない。ここに危うさがあります。演出と暴力の近さを低く見積もってはいけません。「自分はしない」と高をくくってはいけない。演出に含まれた暴力の芽はほんの数手誤っただけで、いつでも急速に育っていくものだからです。
【中略】
今後、私にできることは二つあります。一つは、相手が「NO」と口にするのを励ますことです。もし演出家と俳優として出会うのであれば、権力構造が必ず、「NO」と口にすることの難しさを非対称にします。俳優が演出家に対して「NO」と口にすることの負担は、その逆より遥かに大きいことを理解して、相手の「NO」を口にできるよう励ます、つまりは「聞く」必要があります。
相手に自分の言うことを命令として「聞かせる」のではなく、「聞く」こと。むしろ相手の拒絶を引き出した上で、それを尊重しなくてはなりません。相手の「NO」を引き出すことは、実はより精度の高い「YES」を得るための条件です。「NO」の可能性を欠いて発される「YES」は、単なる追従に過ぎません。操作的な思惑で口にする「YES」が意味を持たないのはそのためです。その「YES」は、ものごとを測る上で何の基準にもならないのです。自分の価値基準を、その人と一時的に上手くやるために抑え込んでしまうことは、端的に言えば「媚びる」ということです。「媚びる」ということは、実は関係そのものを破壊することなのだ私は思います。人と人が対等に付き合うことは不可能になるからです。
この「媚び」による関係の破壊を避けるために、私がまったく同時にしなくてはならないことがもう一つあります。私自身の「NO」もまたしまいこんではならない、ということです。言い換えると、私は率直でなければならない、ということです。それはカサヴェテスが教えてくれたことです。権力構造の中で、私は自分自身の「NO」を最大限弱める必要がある。そうでなくては、俳優の率直な「NO」を引き出すことはできないでしょう。しかし、相手を肯定すること、「YES」を人間関係上のテクニックとして使ってしまうこともまた、「YES」の精度を下げることです。私は私の「NO」を決して、打ち捨ててはいけない。
ただ、同時にこの「NO」はカサヴェテスが落ち込んだ罠でもあります。
ただ、その重要さは続く展開を見た後でしか認識できない。決定的に人の運命を分岐させてしまう出来事は、その未来における重要性にもかかわらずきわめて「些細」なものである、ということの視覚化に、このラングのフレーミングが寄与しています。
潜在的なものが明示される。これはある種、両立不可能な矛盾した事態です。ただ、この「潜在的な明示」を通じてのみ、我々は世界の全体像をつかの間、感得するのではないかという気がします。この世界は、確かに見えること、聞こえること、触れるものだけでできているわけではないのです。今まで意識したことも言語化したこともなかったけれど、それを見た後はこの世界の中で生きるとはたしかにこのような可能性とともにあることなのだ、と感じざるを得ない、今日お話しするのはそういう映画たちについてです。
以下の『東京物語』論を読んで、また小津映画をスクリーンで観たくなった。
しかし、そうは「なりたかない」のです。ある種のやせ我慢のようかも知れないけれど、言ってみれば彼女はこの映画で精緻に描かれた「時間」に抗います。ただ勿論、「なりたかない」からといって、ならずにいられるわけでもないということを彼女自身がよく知っている。例えば昌二のことを忘れつつあるということがそうです。「時間」とも、「社会」とも、「東京」とも呼ぶことができるもの、それがもたらすこの変化・忘却に抗いきれないことの「苦しみ」を紀子は体現することになります。そして、そのことが彼女を観客が最も心寄せる人物、言わば遅れてきた主人公とします。
【中略】
紀子という人物を通じて『東京物語』という映画の普遍性が立ち上がってきます。これが私たち一人一人の話でなくて何でしょうか。「時間」、もしくは「社会」と言い換えてもいいのかもしれません。個人の力や意思では抗いきれないような変化をもたらすものによって、自分はなりたくないものになっていくという、恐らく誰しもが持っている感覚、少なくともある年齢を超えた誰しもが持っているであろう感覚が、この映画の中には確かに刻みつけられています。この、私たちを圧倒する「時間」と、「そうはなりたかない」ちっぽけな個人の「抗い」を両方等しく、極めて具体的な動きや仕草を通じて描ききったことが、『東京物語』の他に比べようもないような達成です。
【中略】
周吉はその紀子の言葉と声をきちんと受け止め得たでしょうか。おそらくはわかっていないでしょう。ただ、周吉はその「わからなさ」をひっくるめて、紀子の苦しみを肯定します。「やっぱりあんたはええ人じゃよ、正直で」と。彼女の苦しみは「正直さ」の賜物なのだと言います。そして「言わば他人のあんたのほうが、よっぽどわしらにようしてくれた、ありがとう」と言います。私たちが無関係で孤独な個人であることは必ず苦しみを伴うでしょう。ただ周吉の言葉は、私たちが無関係であることこそ、むしろ最も深くつながり合うための条件であると示しています。
※太字は書籍では傍点。
23:00頃に寝たはず。
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