2025/11/23-11/29
11月23日(日)
何度か起きて寝てを繰り返し7:30起床。曇り。
アマプラで映画『アフター・ザ・ハント』鑑賞。
「ルカ・グァダニーノ監督の新作、ジュリア・ロバーツ主演でも日本では劇場公開されない」という話題?になっていた作品。
ハラスメント≒キャンセルカルチャーを正面から描く。
のだが、クレジットの出し方で(キャンセルされた)ウディ・アレンにオマージュを捧げている時点で、いわゆるMeTooなどの流れに肯定的な映画ではないのは明白。
しかも加害者(として告発される)ガーフィールドが一番色っぽく撮られている。
ウディ・アレン映画に出たジュリア・ロバーツやクロエ・セヴィニーをはじめ、出演している俳優の心情はいかばかりなのか。
人間の欲望についての作家グァダニーノにこのテーマを撮らせるのは挑戦的だと思うし、演出力もルックも素晴らしい。
勇気ある企画ではある。
ただいつも思うことだが、映画業界そのものも大きく含まれるハラスメントやキャンセルという題材と、芸術的に「美しく語る」ことの相性の悪さは感じた。
それもあってか、通して観る気にならず金曜から少しずつ止めながら鑑賞してしまった。
TLで見かけて、山用のダウンパンツなるものを部屋で着るために買ってみたのだが、暖かいし軽いしでこれは良さそう。
23:00に寝た。
11月24日(月祝)
4:00頃目覚め二度寝して7:30起床。晴れ。
新しく参加するショートドラマの台本読みなど。
11月25日(火)
朝起きた時から頭痛。恐らく気圧のせい。くそ!
午前中は鎮痛剤を飲み、横になったまま「ばけばけ」をまとめて見るなど。
遊郭や身売りなどの性の話題をここまで描いた朝ドラは今まであったのだろうか。
11月26日(水)
7:00起床。晴れ。
Morc阿佐ヶ谷で映画『結婚の報告』鑑賞。
新宿三丁目で髪を切る。
2,600円カットの店だがやたら混んでいて待ち疲れた。
23:30頃寝る。
11月27日(木)
7:00起床。晴れ。
午後から都内某所に集合し、さよなら人生の次回公演ビジュアル撮影。
今回も撮影は吉田電話氏。
かっこいい写真が撮れて、終わって皆で楽しく飲んで、オファーしていた女優さんの出演快諾の吉報も届いて、良い一日となりました。
酔っ払って寝た。
11月28日(金)
酒のせいか深夜に目覚めてしまい、ドラマ「The Americans」1エピソードまるまる見るなどして寝て9:00起床。晴れ。
午後から北千住へ。
シネマブルースタジオという映画施設?で映画『Unloved』鑑賞。
2002年の万田邦敏監督作品。
例えば濱口監督などにも影響を与えたという文脈でよくタイトルを目にする作品だが、なかなか観る手段がなく、今回ようやく。
万田監督は映画『接吻』がとても良かった記憶もあり、楽しみにしていた。
話自体はシンプルな男女の三角関係なのだが、明らかに意図的だろう説明台詞、形式的な演技体など、万田節ともいうべき演出が全面に出ている。
画面の暗さもあって、正直のり切れず、後半はウトウトしてしまった。
『接吻』は、この演出と、「殺人犯との恋愛」という特殊な設定がマッチしていたのだが。
しかし念願かなってやっと観れたのは良かった。
ちなみにシネマブルースタジオは、東京芸術センターなる立派な建物の中に入っていて、大教室のような空間に大きなスクリーン、全295席という広さの、独特な雰囲気の場所だった。
自分を含め客は5人くらいだったはず。
「The Americans」 Season3見終わる。おお、見事なクリフハンガー……!
残り3seasonなので折り返し。
どう転んでも辛い展開しか想像できない。
嵐山光三郎さんの訃報。たくさん読んできたわけではないが、安西水丸さんとの関係も含め、文章も生き方も粋なイメージで好きだった。
11月29日(土)
6:30起床。晴れ。
午後から目黒へ。新しく参加するショートドラマの打合せ。
監督もカメラマンも、会社員時代に少しだけお世話になった方で、偶然に驚く。
終って、Hプロデューサーと今後の相談。
吉田電話氏から届いた次回公演用の写真のセレクト作業。迷う。
積読だったジェニー・オデル「何もしない」(竹内要江 訳)を流し読み。
本当に「何もしない」ことを推奨するわけでなく、主に注意経済(アテンションエコノミー)にどう対するか、というテーマの本。
マルクス理論家のフランコ・“ビフォ”・ベラルディは、その著作『未来後』(After the Future)のなかで、八十年代の労働運動の敗北を、われわれ全員が起業家であるべきという考え方の出現と結びつけている。ベラルディによれば、経済的危機とはかつて資本主義者や投資家だけが対処すべき問題だった。それが現在では、「われわれはみな資本主義者なのだ……それゆえ、全員がリスクを負う……ここでは、だれしも人生を経済の冒険として、勝者と敗者に分かれるレースとして捉えるべきだということが基本的あり前提となっている」◻︎ベラルディの労働観は、個人ブランドを気にする者にとってはおなじみの世界だろう。ウーバーのドライバー、コンテンツ・モデレーター、金欠のフリーランス、やる気に満ち溢れた花形ユーチューバー、一週間のうちに三つのキャンパスを車で回らなければならない非常勤講師のような人たちにとっては。
【中略】
労働者が経済的安定から離脱すると、区分が解消される。「労働に八時間、休息に八時間、そして、残りの八時間はわれわれがしたいことをするための時間」という区分がなくなるのだ。その結果、私たちはすべて換金可能な二十四時間とともに取り残されるのだが、その時間が自分のタイムゾーンや睡眠のサイクルに合っているとは限らない。
ファシズムだと糾弾されたフレイジャーが牧歌的場面を見せつけて無言の回答としたように、ティールの言う「政治からの逃避」とは、時間と現実の外枠に存在するイメージにすぎない。それを拙速に「平和的プロジェクト」と称することは、いくら社会がハイテク化されても、「平和」とは、意思が操られていない、自由にふるまう行為者どうしの果てしない交渉の末に得られるものなのだという事実をないがしろにしている。政治というのは、自由意志を持つ者がふたりそろえば必然的に登場するものだ。政治をデザインにすり替えようとする試み(たとえばティールの言う「自由の機構」)は、人間を機械や機械的存在にすり替えようとする試みでもある。そのため、「自由のための新たな空間を切り拓く最新のテクノロジー」についてティールが書いた文章を読むとき、私の耳にはフレイジャーのあの言葉が響く。「行動は決定されています。それでも、彼らは自由なのです」
注意経済の働きによって、私たちはつねにおぞましい現在に閉じ込められている。そういう状況だからこそ、直面している苦境と同じような例を過去に探すだけでなく、失望によって損なわれない想像力を保つということがますます重要になっている。
だが、いちばん重要なのは、「距離を取る」ということが、どうしてもそこから出ていきたい(しかも永遠に)というやぶれかぶれの気持ちから、今自分がいる場所で拒絶し続け、拒絶という共有空間のなかで他者と出会う決意へと成熟する節目になるということだ。このような抵抗もまた「参与」なのであり、しかもそれは「あらぬ方向」への参与、つまり、覇権争いのゲームの支配体制を骨抜きにして、その外側に可能性をつくりだす、そんな方向へと向かうものなのだ。
時の経過のなかで以前とは異なる自己を表現できないということだ。この点が現代のソーシャルメディアの不条理きわまりない特性だと私は思う。何か大きなことにたいしてであっても、心変わりするのはいたって普通で、人間らしいことではないか。考えてほしい。どんなことにもぜったいに心変わりしたことのない人とあなたは友達になりたいだろうか?
ところが、ネット上で謝罪したり考えを変えたりすると、多くの場合はその人の弱さの表れだとみなされるので、私たちは口をつぐむか、馬鹿にされるリスクを冒すかのどちらだ。友人、家族、知人であれば、ひとりの人間が空間と時間のなかで生き、成長する姿を目の当たりにしているが、大衆は画一的で時間の流れの外にあるものとされるブランドとしての個人しか認識できない。
この時代を表す、ダナ・ハラウェイ特有の用語のほうが、より的を射ているのではないかと思う。彼女が言うところの「クトゥルー新世」とは、「地球が、避難先のない人間や人間以外の難民的存在であふれ返っている」時代だ。「人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世」でハラウェイは、「クトゥルー新世において、いずれ死すべき運命にある生き物として良く生き、良く死ぬ方法の一つは、力を合わせて避難場所を組成しなおすこと、そして、生物・文化・政治技術の部分的な力強い回復と再組成をできるかぎり可能にすることだ。むろん、その際には、回復不能なかたちで失われてしまったものの数々を悼むことは欠かせない」と書いている。これを心に留めると、資本主義的な生産性のロジックが、危機に瀕した人生と意図の両方をおびやかす状況にあって、昔ながらの意味での生息環境の修復と人間の思考のための生息環境の修復とのあいだに違いはほとんどないように思われる。
※太字は原文では傍点。
今週というか今月はなんかダラダラ過ごしてしまったな。
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